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2009年5月 4日 (月)

無名のキリスト者

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネのよる福音10・16)

(解釈)「囲い」とは、教会、可見的教会のことであろうか。あるいは、自分の所属する教会と考えてもいいように思う。その教会の外にも、救われる人はいる、という意味なのだろう。包括主義を是認しているように思われる。同時に、その考えは死者にも及ばないだろうか。及ぶと判断して、実行している教派もあるが、この点は義論があるかも知れない。

さて、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12)という聖書は、排他主義の根拠と思われるが、それは、聖書全体を見た時には、包括主義と対立していない。そのように解釈すべきではないだろうか。

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