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2009年5月 6日 (水)

ハビアンの謎

新潮選書『不干斎ハビアン』(釈徹宗著)は、ハビアンに関する詳細な情報を満載した貴重な本であると思う。

キリシタン時代に、『妙貞問答』と『破提宇子』という、キリシタンの擁護と批判の、全く逆の立場の書物を残した人物である。

なぜ、このようなことが可能なのだろうか。

そこで、カントの「純粋理性批判」を思い出した。形而上的な神に関しては、肯定も否定も、どちらの立場も、言えるのである。そこで、彼は神を要請するために、「実践理性批判」を書いたという。しかし、要請された神は、まだ不十分なのだろう。まだ、理屈の域に留まっているからだ。体験の域に入る必要がある。

ハビアンが、「純粋理性批判」の立場で、神を論じているのであれば、肯定も否定も、できるのであろう。だから、彼にとっては、『妙貞問答』と『破提宇子』は矛盾していないと言えるのかも知れない。

さて、宣教師たちの伝えたキリスト教の反発しつつも、日本で独自のキリスト教を展開した人たちがいたことを、我々は知っている。その人たちは、ハビアン同様、西洋流儀のキリスト教には躓いたかも知れないが、神体験があったので、それを否定することはできなかった。だから、信仰者として一貫した生を送った。ハビアンとは違ったところで、信仰を受け止めていたのである。

カトリック世界にペンテコステ・カリスマ運動が浸透していくのを、ハビアンの生涯を眺めながら見ていくと、その必要性が感じられるのである。理屈は体験への道しるべであり、理屈は、そのことを理解しなければならないと思う。宣教は、その体験へと招くべきであり、理屈で相手を負かすことを目的とすべきではないと思う。

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