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2009年6月29日 (月)

「一日一万歩」の間違い

区の特定保健指導を受けた。一日の歩数を計ることになった。以前も、万歩計を使ったこともあるが、長く続かなかった。使い方が間違っていたのかも知れないと思った。

散歩やウォーキングで、一日一万歩を歩こうと思ったら、なかなか続かないだろう。当日、指導した人によれば、朝、万歩計をつけて、夜、就寝前に、歩数を確認するということでいいという。これまで、そのような使い方をしてこなかった。

要するに、一日に歩く全体の歩数が「一万歩」あればいいということらしい。一万歩のために歩くのではなくて、一日の歩数全体が一万歩あればいいということらしい。それなら、あるいは、できるかも知れないと思った。細切れの歩行もカウントできるのだから。時々、万歩計を見て、歩数を調整すればいいのである。

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生きること

生きること 命令でなく 課題なり
 そこから対話 真実求め

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一日一生

一日を 一生なりと みなしつつ
 武士道を生く いつでも死あれ

内村鑑三に『一日一生』という本があります。その意味は何か、考えたことがありませんでしたが、生きる覚悟かも知れません。その意味では、武士道は今も大切と思います。

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2009年6月28日 (日)

高齢者問題

高齢者 増えて保障の 行き詰まり
 生活変えよ 大合唱へ

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二つのJ

二つのJ その重み知る 関係に
 あなたのJは それは何かと

内村鑑三の「二つのJ」の一つは Japan でした。だから、彼は、今も、世代を超えて我々に語りかけてくるのだと思います。我々も、そんな J を持ちたいと思います。それは武士道なのか、それは内村にあってのこと、同じでなくともいいと思います。そんな J を見いだすことが出来れば、我々は、現世の人々には無視されても、後世の人々に長く語り続けることが出来ると思います。

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宝地図

宝地図 作ってみたら 生活が
 楽しくなるよ ゲーム感覚

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2009年6月26日 (金)

信仰義認

ルターによって有名になったが、信仰によって救われるという。その信仰は、行為による自力救済の反対概念であるけれど、どこかで、「信仰という行為」を意味するようになったのだろうか。カルビニズムとウェスレー流の信仰のなかで、その対立があるかもしれない。一般信徒は、ここで二者択一を迫られても、困るのではないだろうか。両者に共感するものがあっても、おかしくないと思うけれど。また無教会の故関根正雄氏も、信仰による救いというよりも、神の意志に、救いの原因があるという指摘をされていた。カルビニズムによれば、神の予定が、救いの原因ということになるのだろうか。それはそうであろう。では、信仰は何か。原因ではなく、それは条件といってもいいのではないか。信仰義認は、信仰のあとの義認なのだから、信仰は義認の原因という理解を生みやすいのだろう。そういう信仰は、神の側での義認を、人間の側で受け止めた時の主体の変化をも意味しているのだと思う。その変化が新生なのだろう。

浄土真宗では、救いの原因として阿弥陀仏の本願をいう。それは、キリスト教的に言えば、神の救済意志のことでもあろう。絶対他力信仰という言葉には、信仰の強調の意味が含まれているのかも知れない。その両者、神の救済意志と信仰とが矛盾していない。親鸞の中では、ルターとカルビンが矛盾していないというべきであろうか。

浄土真宗はもちろん、仏教である。しかし、仏教の中のキリスト教のような感じもする。阿弥陀様は、もちろん、お釈迦様ではない。むしろ、イエス様の別の姿かも知れない。そんな感じもある。とすれば、阿弥陀様とお釈迦様との対話は、さしずめ、キリスト教と仏教との対話に近いかも知れない。

さて、そのように、信仰が新生に対応するのだとすれば、新生者は、その後はどうするのであろうかという問いが生まれる。新生者(あのカーター大統領で広く知られるようになったボーン・アゲインの信仰を持つ人たちである)は、その後も、この地上で生き続けるのだとすれば、そこでは、やはり人間の側の意志も必要になるのではないか。聖化の道における人間の意志は、信仰とか、他力を否定するものではない。神の恵みを感じる時に、自力信仰というものは、既にないのだろうと思う。その、神の恵みを感じていて、しかも「修行」をしない、意志を働かせないという選択は、ないのではないだろうか。もちろん、その意志は、恵みに逆らうものではなく、恵みに従うものである。親鸞の教えの中にも、そんな、自然な態度が示されていると思う。

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仕切る人

仕切る人 いやがられたり 気と言葉
 対応いかに クッションの要

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2009年6月25日 (木)

職業道楽化

気が重い 仕事の朝だ どうしよう
 道楽に行く 静六さんと

静六さんとは、本多静六のこと。

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2009年6月24日 (水)

天皇制のこと

博文が 近代日本 思う時
 天皇制の 強化を図り

その中で 信仰勇者 輩出す
 男中心 やがて破滅に

敗戦で 天皇制も 問われたり
 象徴として 今に残るも

戦前に 戻す力に 抵抗す
 信仰者たち 裁判辞せず
 
博文の 前の天皇 何のため
 日本文化の 継承者なり

和歌を見よ 仏教を見よ その中に
 詩と哲学は 今に伝わる

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2009年6月23日 (火)

終身雇用

終身の 雇用を求む 人多し
 儒教倫理が かたちを変えて

空観じ 変化恐れず 立ち向かえ
 不況も是なり 仏の教え

頼る人 何に頼るか 見つめなば
 企業も国も 偶像かもと

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2009年6月22日 (月)

光求めて

ボロまとい よろめきながら とぼとぼと
 裏街道は 光近道

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2009年6月21日 (日)

歴史観

戦後、ある時期までは、戦前のことが何かタブー視されているかのように、余り、触れられなかったのではないだろうか。しかし、司馬遼太郎さんの小説が広く読まれるようになって、日本の歴史を鳥瞰する視野が与えられたのかも知れない。でも、それは、あの敗戦の境の重要性を見えなくしてはいけないと思う。

日本に二回、原爆が落ちた。それは何を意味しているのだろうか。その結果、日本に理想主義的な憲法が出来た。しかし、憲法は現実の政治の中での法律であれば、それだけでは余りにもリスクが大きいというのだろうか、日米安保条約もあり、その二つの関係の中で、日本の政治は動いている。そういう構造の中での日本のビジョンは何であろうか。

終戦は8月15日。この日は、1549年、ザビエルが日本での宣教を開始した日でもある。カトリック教会の中では、それ以外にも、マリアの祝日という特別な日にあたっている。この両者の結びつきは偶然かも知れないが、ある意味では、この日が、戦後日本の原点ではないのだろうか。

また、ユダヤ民族に苦難の時があり、イスラエルが建国された。世界流浪時代を経て、紀元70年以前への回帰という、時間的には途方もない「原点回帰」は、一体、何を意味しているのだろうか。

これらは、現代を見る時、やはり課題となるのではないだろうか。それらは、賀川豊彦は知っていたが、内村鑑三は知らなかった課題である。こういう、課題を無視したところで、日本の宣教を考えることができるのだろうか。

今年は、プロテスタント宣教150年の年である。日本の宣教を振り返るよい機会である。その時、歴史観への問いがあってもいいと思う。

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2009年6月20日 (土)

死について

「罪の支払う報酬は死である」とは有名な聖書の言葉である。ところで、その死とは何か。肉体の死であろうか。いや、直接的には霊的な死を意味するのではないだろうか。

罪は第一に霊的な死をもたらす。では、肉体的な死は、霊的な死と無関係なのだろうか。関係はあると思う。この二つの死は違うものであるが、無関係ではない。

罪がなければ死はない、と聖書は言う。最初の人は、罪はなかった。その状態で、その人は永遠に、いや永久に生きたのだろうか。生物としての人が、最初は死なないこともあったと、想像できるだろうか。私には想像できない。

今、我々にとって、肉体の死は自明のことである。しかし、肉体の死と共に、どこかにニヒリズムがおそってくる。そこに、霊的な死の影がある。

だから、肉体の死から、霊的な死を思い、その解決を考えなければならない。そこに救いがある。その救いは、霊的な死の解決であるが、肉体の死との関係の中でとらえられなければならない。そして、その解決があった時、肉体の死は、ある意味では、その使命を果たしたことになる。それを、端的に「死はない」と言ったのではないだろうか。しかし、それでも、肉体はなくなる。その違いの解決が、「復活のからだ」なのではないだろうか。

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2009年6月19日 (金)

貧もまた 来れば歓迎 その子らに
 たくましきもの みなぎるゆえに

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感謝

大病も 障害もまた ありがたし
 生の意味問い 解決あらば

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舞台

見てもらう 舞台目指して 励む人
 生の目標 充実の日々

舞台なく 生活たるみ 無秩序に
 その舞台化を 目指す道とは

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生前弔辞

生前に 弔辞を書こう 死の準備
 意味ある生を 送るためには

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同じ人

ザベリオは ザビエルのこと 別人と
 思いしけれど 同じ人

霊名に ザベリオと書く その人は
 再度挑戦 それが真意か

岩下壮一神父を思いつつ 

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2009年6月17日 (水)

歴史の終わり

原罪が 智恵の始めと 哲学者
 救われるとは 歴史の終わり

この哲学者とは、カントであり、出隆です。「啓蒙とは何か」「哲学以前」の中で、原罪に触れていました。それが智恵の始めであれば、人類の歴史は原罪から始まったと言えるかも知れません。そして、原罪の処理を意味する救いは、ある意味では、そんな人類の歴史の終焉を意味するのではないでしょうか。
その救いは楽園への回帰であるとすれば、楽の一面はあるかも知れませんが、人類の苦難の経験の記憶、事実の消滅ではないと思います。
啓蒙とは、楽園回帰よりも、智恵の獲得に関連づけられている考えと思いますが、その目的を考えた時、やはり、神の要請に導かれているのだと思います。
救いとは、やはり何かの終わりなのでしょう。宣教とは、この終わりの宣言なのかも知れません。であれば、現代は2000年前と同様に、終わりの時代なのかもしれません。

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2009年6月16日 (火)

生と死

生と死とは、恐らく、コインの表と裏のように区別はできるけれど、切り離すことはできないのだろう。色即是空も身心脱落も、そのことを知っているのだ。だから、不幸は幸福に転換できるのだ。

死んだことのない人間に生を語る資格などはない。しかし、死んだ人間は、どうして語ることができるだろうか。

悪魔は生きている人間を攻めるのである。しかし、死んだ人間は悪魔もお手上げである。

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2009年6月14日 (日)

墓の文字

Rimg0274 墓の文字 和とか無とかの 一字あり
 思い伝わる 他人なりしも

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人生不可解

不可解を 問う心あれ なお生きて
 神の無限を 人はつかめず

華厳の滝から身を投げた藤村操を思い、その呪縛からの解放を祈りつつ。

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墓地

鳥が鳴き 緑豊かな 静寂に
 死者は安らぎ 心を癒やす

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2009年6月13日 (土)

死を待つ人々

「死を待つ人々」という言葉は、マザー・テレサがインドのカルカッタで始めた活動に結びついている。路上で見捨てられた人々を施設に連れてきて介抱した活動が、やがて発展していく。
この活動を視察するために、日本からも多くの人たちが現地に行った。
しかし、「死を待つ人々」というのは、あのインドにだけいるのではない。日本にも、そして自分たちの身近にも、いる。我々は、「死を待つ人々」を見るために、インドまで行く必要はないのである。自分の隣人もまた、そんな人たちかも知れない。そして、残された短い日々を、介抱してやる、介護してやる。あるいは、介護させていただく、と言った方がいいのかも知れない。
やがては死んでいくだろう。この人は何のために生きているのか分からない場合、そして、その人と関わらなければならない場合、その人は、自分にとっては、「死を待つ人々」である。
その日は、今日だろうか、あるいは明日だろうか、いずれにしても、そう長くはない。朝、目覚めて、まだ命がある。命があるのを感謝しようという言葉もあるが、そんな感謝が、どこからも出てこない人たちが、「死を待つ人々」である。生きる意味の喪失が、その特徴である。
我々は、マザー・テレサの活動に参加するために、インドまで行く必要はない。すぐ近くに、「死を待つ人々」はいる。

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2009年6月10日 (水)

還暦迎え

還暦に そろそろかなと 死亡欄
 遺言を書こう 自分史に乗せ
 
還暦後の生き方を考える時、人生の最後がいつ来てもよいように、準備しておく必要があるのではないでしょうか。

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諸宗教対話

諸宗教対話は、プロテスタントの中では余り見えてこないけれど、カトリックの中では、実に盛んである。その時、どんな議論があるのか、関心のある人には、最近、出版された本、『奥村一郎選集 2  多文化に生きる宗教』が、非常に参考になる。その対話の前提としての、考え方にも言及している。

「排他説-邪教論」、「宗教平等論 絶対的平等論」、「相対的平等論」、「折衷説」、「優越説」、「成就説」、「無名のキリスト者」など、取り上げられていて、解説、批評が加えられている(63-66頁)。

排他説は、「原理主義」的考え方であるが、「この立場では、「宗教対話」は、まったく不可能」という。そうかも知れない。「原理主義」は、イスラム原理主義という言い方が、キリスト教にも波及してきたものだが、あのアメリカでの、最初の根本主義(ファンダメンタリズム)の動機が、イスラム原理主義と同じとは、思いたくない。いや、テロを誘発するという点では、違うと思う。

「優越説」、「成就説」、「無名のキリスト者」の三項目については、今も影響している考え方と思う。「成就説」は有用ではないだろうか。賀川豊彦の考え方も、これのような記述が別の本に記されていた。

「無名のキリスト者」については、批判的に書かれているが、仏教者をキリスト者とみなすというのが、その本意ではないと思う。そうではなくて、自分たちには分からないが、仏教や、その他の宗教の人たち、また宗教を持たない人たちでも、神の「救い」の中に入る可能性を否定できないのではないだろうか、という意味ではないだろうか。もちろん、普通の、教会による救いの道を否定するのではないけれど、あの人は救われた人、あの人は救われていない人などと、安易にレッテルを貼りたいとは思わない。死の瞬間まで、人の救いは、どうなるのか分からないし、宗教の定義では、「救われていない」人たちに対しても、その究極的、最終的判断を、どこかで保留していくことが、人としては望ましいのではないだろうか。

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2009年6月 8日 (月)

読書の仕方

私の読書は濫読である。読みたい本を読む。しかし、その時、小さな付箋を使う。それで、読んだ行を知ることが出来る。本に備え付けの紐や、あるいはしおりだと、行の指定が出来ない。だから、紐もしおりも使わない。この付箋で、少しずつ読んでいく。

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2009年6月 5日 (金)

預言者の道

生涯の 転機は意味を 求む旅
 聖化の道を おおしく進む

ベルジャーエフの生涯を思いつつ。

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仏教

仏教は ペシミズムなり そう言うが
 色即是空 それのみならば

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エートス

聖の道 エートス要す その要
 絶えず祈れの み言葉にあり

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天使祝詞1日100回

天使祝詞を1日100回、射祷、念祷のようにして、主に歩きながら唱えること。その記録を残すこと。このような実践は、聖化の道を歩む上で非常に助けになると思う。信仰生活を、どこかで習慣化していくことが大切と思う。生活習慣の工夫を怠るなかれ、と言いたい。

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遺言

遺言力(いごんりょく) 生の反省 促して
 侍魂(さむらいこん)の 養成の道

最高裁長官を務めた故藤林益三氏に会ったことがある。毎年、遺言を書き換えるという話を聞いた。遺言は、人間は死ぬという現実を直視したものである。これは生きることの反省を促すのではないだろうか。

死は、罪の結果であると聖書は言う。その一面はあるだろう。しかし、同時に、死を直視することを通して、人は救いの道を見い出すのではないだろうか。であれば、恵みへの道につながる要素も持っている。その道を具体化する一つの手段が遺言かも知れない。

遺言を書くということは、大切なことである。それは、この世に、自分は何を残すかということを考えさせるからである。そして、死という人間の限界を意識化させるからである。

遺言の日常化が、人の再建の方法となるかも知れない。

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