« 仕切る人 | トップページ | 宝地図 »

2009年6月26日 (金)

信仰義認

ルターによって有名になったが、信仰によって救われるという。その信仰は、行為による自力救済の反対概念であるけれど、どこかで、「信仰という行為」を意味するようになったのだろうか。カルビニズムとウェスレー流の信仰のなかで、その対立があるかもしれない。一般信徒は、ここで二者択一を迫られても、困るのではないだろうか。両者に共感するものがあっても、おかしくないと思うけれど。また無教会の故関根正雄氏も、信仰による救いというよりも、神の意志に、救いの原因があるという指摘をされていた。カルビニズムによれば、神の予定が、救いの原因ということになるのだろうか。それはそうであろう。では、信仰は何か。原因ではなく、それは条件といってもいいのではないか。信仰義認は、信仰のあとの義認なのだから、信仰は義認の原因という理解を生みやすいのだろう。そういう信仰は、神の側での義認を、人間の側で受け止めた時の主体の変化をも意味しているのだと思う。その変化が新生なのだろう。

浄土真宗では、救いの原因として阿弥陀仏の本願をいう。それは、キリスト教的に言えば、神の救済意志のことでもあろう。絶対他力信仰という言葉には、信仰の強調の意味が含まれているのかも知れない。その両者、神の救済意志と信仰とが矛盾していない。親鸞の中では、ルターとカルビンが矛盾していないというべきであろうか。

浄土真宗はもちろん、仏教である。しかし、仏教の中のキリスト教のような感じもする。阿弥陀様は、もちろん、お釈迦様ではない。むしろ、イエス様の別の姿かも知れない。そんな感じもある。とすれば、阿弥陀様とお釈迦様との対話は、さしずめ、キリスト教と仏教との対話に近いかも知れない。

さて、そのように、信仰が新生に対応するのだとすれば、新生者は、その後はどうするのであろうかという問いが生まれる。新生者(あのカーター大統領で広く知られるようになったボーン・アゲインの信仰を持つ人たちである)は、その後も、この地上で生き続けるのだとすれば、そこでは、やはり人間の側の意志も必要になるのではないか。聖化の道における人間の意志は、信仰とか、他力を否定するものではない。神の恵みを感じる時に、自力信仰というものは、既にないのだろうと思う。その、神の恵みを感じていて、しかも「修行」をしない、意志を働かせないという選択は、ないのではないだろうか。もちろん、その意志は、恵みに逆らうものではなく、恵みに従うものである。親鸞の教えの中にも、そんな、自然な態度が示されていると思う。

|

« 仕切る人 | トップページ | 宝地図 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 仕切る人 | トップページ | 宝地図 »