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2009年6月21日 (日)

歴史観

戦後、ある時期までは、戦前のことが何かタブー視されているかのように、余り、触れられなかったのではないだろうか。しかし、司馬遼太郎さんの小説が広く読まれるようになって、日本の歴史を鳥瞰する視野が与えられたのかも知れない。でも、それは、あの敗戦の境の重要性を見えなくしてはいけないと思う。

日本に二回、原爆が落ちた。それは何を意味しているのだろうか。その結果、日本に理想主義的な憲法が出来た。しかし、憲法は現実の政治の中での法律であれば、それだけでは余りにもリスクが大きいというのだろうか、日米安保条約もあり、その二つの関係の中で、日本の政治は動いている。そういう構造の中での日本のビジョンは何であろうか。

終戦は8月15日。この日は、1549年、ザビエルが日本での宣教を開始した日でもある。カトリック教会の中では、それ以外にも、マリアの祝日という特別な日にあたっている。この両者の結びつきは偶然かも知れないが、ある意味では、この日が、戦後日本の原点ではないのだろうか。

また、ユダヤ民族に苦難の時があり、イスラエルが建国された。世界流浪時代を経て、紀元70年以前への回帰という、時間的には途方もない「原点回帰」は、一体、何を意味しているのだろうか。

これらは、現代を見る時、やはり課題となるのではないだろうか。それらは、賀川豊彦は知っていたが、内村鑑三は知らなかった課題である。こういう、課題を無視したところで、日本の宣教を考えることができるのだろうか。

今年は、プロテスタント宣教150年の年である。日本の宣教を振り返るよい機会である。その時、歴史観への問いがあってもいいと思う。

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