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2009年7月31日 (金)

秀吉

我はつゆ 悟りに近く 秀吉の
 辞世は今も 諸行無常を

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詩歌の国

我が民は 俳人であり 歌人なり
 詩歌の国に 我は生まれて

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2009年7月27日 (月)

再臨信仰の再興

日本の教会の弱体化が憂慮されている。信徒が増えない、献身者が少ないなど、教会はこれからどうなるのだろうか、と心配する声が多い。処方箋は何か。私としては、再臨信仰の再興を挙げたい。

かつて、内村鑑三の名と共に、再臨運動が展開された。この運動では中田重治や木村清松の名前も出ているが、内村が中心であったと思う。しかし、やがて内村の判断の中で、運動は終焉する。それは、誤解が生じて、それを憂慮したからである。

誤解は、この運動展開の中で常にあったし、反対論もなくならなかった。しかし、それでも、再臨を待つ信仰なくして、聖化は安定しないのである。聖化信仰を安定させ、持続させるためには、再臨信仰という支えが必要である。どうしても必要である。だから、この信仰を非日常的な影響という点から中止するというのではなくして、日常的な信仰の中で捉え返すことが必要なのである。再臨信仰は、日々の信仰でなければならない。日々の祈りの中で覚えられなければならないのである。

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2009年7月22日 (水)

総選挙

政権の 交替賭けて 二政党
 対立あれど 土俵は同じ

思うのは この世の生の ことばかり
 あの世の生は もっとよいのに

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2009年7月21日 (火)

空を見る子ども

空を見る 子どもの笑顔 何を見る
 無の悲しみを 超えたところに

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死ぬ仕事

死ぬ仕事 ベートーベンの 第九聴き
 歓喜に満ちて 無事に終えたし

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2009年7月20日 (月)

三年半

終末論には関心がある。千年王国と再臨との関係など、いろいろな説の中で、どう考えるべきなのだろうか。千年王国は信仰告白の中にはないが、再臨は入っている。だから、比較すれば、再臨は必須だけれど、千年王国は、それよりランク下ということであろうか。

千年王国とは、この地上でのことであろう。その時、地上の権力と教会の権威との関係が、それら諸説の存在の原因であろうか。迫害時代は、まず再臨の強調で、千年王国前の再臨、国教時代は無千年王国、そして政教分離時代は、千年王国後再臨が適応しているようにも思える。

千年王国の起点を過去求めるとしたら、聖霊降臨の時か、あるいはキリスト教がローマ帝国で、国教になった時であろうか。聖霊降臨の時代区分は今も有効である。しかし、国教は過去のことになった。しかし、いずれにしても、千年王国は既に始まっているという理解が可能である、ということを示唆している。

ところで、終末論には、神の民の艱難時代もテーマとして出てくる。それは三年半だという。この三年半を、どう考えるのか。時計の時間を指しているのだろうか。それとも象徴的に捉えるべきなのか。

そこで、少し連想を働かせると、あの太平洋戦争は約三年半であった。1941年12月8日から1945年8月15日までであるから。しかし、これは日本の経験であって、聖書の舞台であるユダヤ民族とは無関係ではないか。それはそうだけれど、日ユ同祖論をもってくれば、無関係ではなくなるのではないか。一つの問題提起である。取り組む人がいるだろうか。

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2009年7月17日 (金)

「父 吉田茂」

光文社知恵の森文庫『父 吉田茂』(麻生和子著)を読んでいる。著者は麻生首相の母である。

元日本医師会の会長だった武見太郎が吉田茂の「義理の甥」にあたるのだそうだ(p.14)。銀座に、武見氏の診療所があったのを覚えている。武見氏は高校の先輩であった。仏教の信徒であったが、四谷のカトリック教会の司祭だったカンガス氏とも交流があったという。

著者の母は雪子といったが、その父が牧野伸顕。牧野伸顕は、大久保利通の次男で、鹿児島の生まれだという(p.50)

ということは、著者の祖父が牧野伸顕ということになる。現在の麻生首相もまた、大久保利通の子孫の一人なのだ。

もし、麻生氏が首相でなかったなら、この本を手にすることもなかったかも知れない。近代日本の形成について関心を持つきっかけを、麻生首相は作っているともいえる。

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自分探し

ふるさとに 自分探しの 旅に出る
 我は何者 何を為すべき

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辞世

風さそう 辞世の中に 無念あり
 浪士ならずも 胸打つ一首

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2009年7月14日 (火)

無事

今日もまた 何事もなく 過ぎにけり
 時の怖さを 誰も知らずに

何もない それが平和か それでよし
 よしと言いつつ なお問いかける

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2009年7月13日 (月)

辞世の歌

辞世千人一首という本がありました。電子辞書にも、一つのものにだけ収録されていました。日本人には辞世の句・歌を残すという習慣がありました。この習慣を取り戻したいと思います。

辞世の句・歌は、臨終が迫った時に作るものではないと思います。健康な時に作った方がいいのだと思います。それは、死ぬことを見つめつつ生きることが大切だからです。生きることの質を高めるためには、それが一番有効な手段と思います。遺書も、健康な時に作った方がいいと思います。死というものは恐れていては追いかけてきます。死を大切にして、共に生きるようにすれば、それが無限に生きる価値を高めてくれるものということが分かると思います。

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歓喜

死にまほし 第九聴きつつ 歓喜にて
 満ち溢れつつ 凱旋門へ

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2009年7月12日 (日)

超人

我は勝つ ひばりの言葉 超人の
 理想と一致 新たな視点

美空ひばりの言葉「今日の我に明日は勝つ」は、ニーチェの超人を連想させます。実存思想の精髄の言葉のようです。ニーチェは、キリスト教に反対と思われていますが、超人の理解を聖化への道の中で捉えれば、もっと別の意味を持つかと思います。

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悲しみ

悲しみが 実存を呼び それがまた
 悲しみ招く 生死の境

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弁神論

悪を見て 神への疑問 ありとても
 自由なければ 悪もなしとか

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2009年7月 8日 (水)

日本の首相

秀吉も 家康もまた ビックリだ
 日本の首相 キリシタンなり

麻生首相がローマ教皇に面会した。その新聞記事で、どれもが首相はカトリック信者という事実を指摘していた。禁教令を布告し、また鎖国の道を準備した秀吉や家康が生きていたら、さぞビックリしたことであろう。時代は変わったのである。かつての殉教者たちの列福を宣言したバチカンは、その変化を、どう受け止めたであろうか。麻生首相がカトリック信者としてローマ教皇に面会した、これは、麻生首相の大きな功績ではないのだろうか。今の人間には分からなくとも、歴史は、そのことを末永く伝えることであろう。

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2009年7月 5日 (日)

総選挙

総選挙 日本の未来 問う時に
 共感できる ビジョンはいずこ

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