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2009年8月 3日 (月)

再臨信仰

再臨信仰というと、内村鑑三を思うのではないだろうか。関連の文章がたくさん残っているので、自然にそうなるような気がする。再臨待望同志会という団体が公開の集会を開くことはあっても、回数も少ないし、影響に関しては、内村の文章の方がよほど大きいと思う。

内村の文章は、今では教会の人たちもたくさん読んでいる。無教会人の独占ではなくなっている。教会の説教だけで信仰を養うのは、なかなか無理がある。説教で、どれくらい再臨について教えられるであろうか。内村の文章の方が、よほど深いところを表現していると思う。

信仰は贖罪から生きたものとなる。しかし、それは生きたものであるから、方向づけられなくてはならない。そのゴールを考えた時、そこにあるのは再臨である。贖罪と再臨との関係については、内村も語っているが、教えられるところは多い。再臨信仰の再興が、教会の大きな課題ではないかと思う。そこから贖罪との関係が反省され、教会の自覚の深化もなされるであろう。

キリスト教信仰を自覚していこうとする時、今でも内村に教えられるところは多い。内村は無教会人の独占ではない。教会の人たちも、それを読み、益を受けるところは多い。その益を、それぞれの教会の中で生かしていけば、それでいい。そういう流れを、教会の中で作っていくことが無教会の教派化を阻止することにもつながるのではないだろうか。無教会は教派ではないというのが、内村の見解であり、パーメリーさんへの手紙によく書かれている。もちろん、無教会を教派と見る見方も、ある意味では常識的見方とも言えるのだけれど、内村が問題にしているのは、そこに込められている意識の問題かも知れない。

それにしても、日本という国は、一人、内村鑑三という人物の出現により、どれくらいの益をこうむっているか計り知れないものがあるような気がしている。教会が弱体化していても、内村の本がある限り、日本におけるキリスト教は大丈夫のような気がする。

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