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2009年8月12日 (水)

統一教会のこと

統一教会とは、正式には世界基督教統一心霊協会という。私も何人かの信者との接触があったが、どの人にも悪い印象は持たなかった。しかし、やがて、その関係の中で、14年半勤務した会社を退社した。

退社には別の動機もあった。しかし、公には「統一教会との関係がこじれて」という理解がされているかも知れない。それもまた間違いではないから、それはそれでよいかも知れない。

統一教会は、やがて霊感商法でも知られるようになり、反社会的として批判されるようになった。

しかし、それ以前、統一教会の教会へのアプローチには、なかなか執拗なものがあった。それは教義に関連していたのであろうと思う。諸教会が統一教会を認めること、その中に統一教会の根本的な存在理由を見ているようでもあった。イエスが来た時、その時の宗教指導者たちがイエスを拒否したのが歴史的事実であるが、同じような図式を描いているのか、今、ユダヤ教宗教指導者に代わるキリスト教諸教会が統一教会を認めることが大切であり、必要なのだという理解であったように思う。成約という言葉も使われていた。

そこには解釈があったが、その解釈を徹底的に批判する人もいた。その中にはカトリックの司祭もいたが、その成果が、やがて私の退社にからんだのである。

プロテスタントの教会側では警戒心が強く、中には自分の教会の紹介に「統一教会とは無関係」として表示するものも出てきた。

まだ、統一教会の勢力が強い時、昭和40年代の前半であったが、早稲田大学で、この教会の紹介があった。十字架は失敗で、そのために再臨のキリストが来るということであった。十字架が失敗という捉え方が、何かひっかかっていた。キリスト者の信仰の中で、十字架は失敗であったであろうか。その贖罪行為の故に聖霊降臨があったとすれば、失敗ではなくて、その目的を完全に果たしているのではないだろうか。しかし、その後の教会の歴史を見れば、またキリスト者の生き方を見れば、それでも罪が残っているように思える。その課題が、今も残っている。だから、それを指摘して、十字架の失敗という言い方も、ある程度、可能であるかも知れない。そして、それはキリストの再臨を予想させるものである。

キリストの再臨は、統一教会の言うように、十字架の失敗のためではないと思う。十字架の贖罪で始まった新生・聖化の行程の完成のためであると思う。両者の違いは微妙ではあるが、明確に知る必要があると思う。新生は「救われた」という言葉でも語られているが、その言葉は、決して再臨を無用にするものではない。再臨によって支えられることが、聖化の道を完成させるために必要、不可欠なのである。そういう意味で、新生と再臨は二者択一ではなく、共に必要なのだ。その論理は、絶対矛盾的自己同一か、楕円の真理か、言葉の意味の対立を超えた視点を要請するものである。

しかし、教会は、再臨問題にからんだ統一教会の問題提起を捉えて、再臨信仰の再興にまでは至らなかったのである。その対応ができなかった。そんな余裕がなかったのかも知れない。もし、統一教会を反面教師として、自分の信仰の反省と終末論的信仰の再興に至ったのであれば、教会はもっと強化されたであろうと思う。

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