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2009年8月16日 (日)

空中再臨

キリストの空中再臨という話がある。聖書に出てくる。また、イエスの水上歩行の記事もある。これらは、どう解釈するのだろうか。解釈なしで、そのまま「事実」と見たら、若き日の長谷川如是閑が、宣教師の語る聖書の話に荒唐無稽と感じたと同じような反応が返ってきても、おかしくはない。

復活は甦生ではない。それは甦生のようでもあるという類似を否定するものではない。しかし、その類似点にのみ目を向けて、そこに事実を見ようとする目に固執すれば、空中再臨、水上歩行が「科学的事実」という受け止め方をされて、一笑に付されるだけとなるかも知れない。その関係を解明することが肝要と思われるのである。

水上歩行も空中再臨も、過去における、また将来における科学的事実であるとは、私は思わない。しかし、それは、その真理性を否定するのではなく、全く逆である。信仰の目で捉えた時、それらは、実に重要なものとなって現れてくると思う。空中再臨は信仰者の実存的生き方を最高に強化するものに思われる。再臨は最後の事柄であるけれど、その過程にあるのが、空中再臨である。それを書いた人は、そのようにしか伝えられなかったのではないだろうか。しかし、それが真理であるという直感があった。われわれは、その直感を正しく受け止めて、信仰の、時間・空間を超えた普遍性を確立していかなくてはならないのであろう。

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コメント

空中再臨に関しては、教会の携挙とか艱難時代とか、そんな言葉が関連して出てくる。これからの預言として捉えられているのだろうと思う。それらがどんな事態を指しているのか、よく分からない。しかし、再臨信仰は、過去のこと、そして現在につながる信仰のあり方でもあるという視点があってもいいかも知れない。再臨が「来る」ということのみではなくて、「来つつある」ということとして指摘されていたのは、波多野精一氏の『時と永遠』という著書であったと思う。この進行形での再臨の捉え方が、空中再臨の本質ではないかと、私は思う。その時、初めて、信仰が働くからである。再臨信仰が生きたものとなるからである。再臨信仰とは、再臨をただ単に待つということだけではなくて、待つ仕方において、聖化の完成への期待とともに、信仰の目を一点に注ぐという意味も含まれているような気がする。内村鑑三が見いだした再臨信仰がどんなものかは、これから学びたいが、信仰義認で始まった信仰は、再臨信仰にまで至る時、初めて全体が理解されるのではないだろうか。

統一教会も、再臨の問題に注目して、独自の理解をして、そのもとで活動していたのだろう。しかし、空中再臨ではなくて、地上の再臨にまで踏み込み過ぎたのではないだろうか。教会の一致は、空中再臨への信仰の中で捉えられるべきではないかと思う。諸教会が教会の一致に反対とか、無関心とかいうのではないと思う。教派主義への批判は、教会側でも共鳴する人が少なくないと思う。

投稿: | 2009年8月17日 (月) 21時03分

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