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2009年9月13日 (日)

ヤコブ書のこと

わざによる救いは、新生・義認に対応しているのではなく、聖化・栄化に対応しているのであろう。それぞれのわざに応じて、報いをもって来られると言う。

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コメント

ヤコブ書で言われていることは、信仰かわざかではなく、生きた信仰か死んだ信仰かだと思います。
信仰は命ですから必ずわざとなって顕れます。
パウロも「愛によって働く信仰」(ガラテア書)と言っており、ヤコブと矛盾しません。
よって救いは信仰により、わざにはよりません。

投稿: ホセア | 2009年9月15日 (火) 13時15分

信仰義認を否定しているわけではありません。しかし、信仰義認の真理は、新生に対応するものと思っています。新生は、洗礼とも関係しています。中世では、洗礼は幼児洗礼であったと思いますが、そのため、洗礼と新生との関係が確認されなくなったかも知れません。ルターの着目点は、この点であったと思います。だから、宗教改革の時代に、再洗礼派が生まれて、新生の確認後の洗礼という主張が生まれたのだと思います。この新生が「救い」という言葉で語られていると思います。しかし、救いは、最終的な救いを意味する場合もあると思います。それは、聖化の完成としての栄化です。新生から聖化の道を進み、栄化に至るのが信仰の歩みと思います。その聖化の道において、人間の自由意志やわざというものがあるのではないかと思います。そして、それは、信仰義認に対立したり、それを否定するものではないと思います。

聖書は、わざの重視を語っています。

「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。」(ローマ2・6)

ローマ書の著者であるパウロは、また信仰義認を強調したガラテヤ書の著者でもあります。信仰義認と、わざへの報いは矛盾しないと思います。ただ、最終的な救いは、神のわざを受けるとる(信仰)だけであり、人間の行為の功績によるものではないという点は動かないと思います。

わざについて語るのは、新生から栄化への途上にあって、人間の意志と行為はあるということです。誕生は、その人にとっては、全く受動的なことですが、成長には、能動的なものが認められると思うからです。この能動的な部分を、どう回復するか、それが成長しない日本の教会にとっての課題と思います。

投稿: | 2009年9月16日 (水) 09時35分

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