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2009年9月 8日 (火)

予定の教理と再臨信仰

予定の教理は再臨信仰と関係がある。共に終末に関する事柄である。自らの救いに関する予定への不安から倫理的生活と、この世での富と成功を通して、予定の確証を得ようとした、あのウェーバーの描くピューリタンたちは、ある意味で再臨信仰に生きた人たちにも見えるが、違うのではないかと思う。

本当の再臨信仰は、聖化体験の勝利の徹底、公然化を求めるものであり、そこに、予定への不安はない。予定への不安というものは、むしろ、義認への問いなのではないだろうか。

そもそも、予定の確証などというものがあるのだろうか。それを求めるのであれば、救いの結果にではなくして、原因にこそ、求めるべきではないだろうか。そして、その原因は義認(新生)であり、そこから生まれる聖化である。聖化は義認の結果であり、また予定の原因とならなければならない。予定の確証を求める意識は聖化を無視してはならないのである。予定の確証を現在進行形の聖化体験の外に求めることは間違いではないのだろうか。そして、予定の確証を求める意識が聖化体験と交差した時、そこに再臨信仰が生まれるのだろうと思う。

再臨信仰は、人生の謎のすべてに回答を得ようとする意識ともふれあう。その意味では、再臨信仰は特別なものではなくて、キリスト者の日々の信仰なのだと思う。

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