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2009年9月11日 (金)

教会の課題

古屋安雄氏の近著に『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』(教文館)がある。キリスト者で同じような疑問を持つ人は多いと思う。その中で、著者は、日本キリスト教団の紛争にふれて、「教会派」と「社会派」との対立を分析している。的確に語られていると思った。そして、「神の国」という包括概念における解決案を提起されている。バルトの言葉の引用もある(189-190頁)。

「教会は国家に、神の国を想起せしめねばなりません。神の国こそ、究極の、そして包括的な現実なのです。教会が国家に対して想起せしめることは、本来的な国というものは、神の国であることをやめない国であり、それはキリストにおいて建てられ、聖霊において現在的であり、来るべき啓示そのものにおいて明らかになるものです」
「神の国とは包括的な概念なのです。私は教会が神の国を宣べ伝えると言いたいのです。…神の国という終末論的な概念が先にあり、次いでその現実的な内容として、罪の赦しにおける神の義が来るのです。…単なる正義ではないのです。…私は定式化して言うならば、教会は神の国と義と戒めを宣べ伝えると言いたいのです」
(『カール・バルト著作集』第7巻、312,317-318頁)

紛争の渦中にあった古屋氏にとって、これがご自身の解決案なのだろう。私は、この「神の国」に再臨信仰を付加したいのである。バルトの引用を思うと、同じようなことを指摘しているのであるが、「神の国」という、どちらかというと、静的イメージが、再臨というと、動的な要素が加わると思う。人間が歴史的存在である限り、未来を思わざるを得ない。その要素を信仰に生かすものが再臨信仰なのである。神の国は、かつてあり、今もあり、そしてやがて来る。その「やがて来る」に着目する時、そこに再臨を考えざるを得ないのである。再臨信仰の更新、これが、私にとっての教団紛争の解決案である。

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