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2009年9月15日 (火)

憲法のこと

明日、新しい政権が誕生する。政権交代には賛成である。日本の課題が、政権交代のたびに議論され、日本の使命も新たに認識される機会となるであろう。電車の中吊り広告を見れば、週刊誌は新しい権力者たちのスキャンダル探しに懸命のようだが、私には、そんな趣味はない。

さて、日本の使命を考える時、憲法がそのよい材料になるだろう。

憲法は、日本の安全保障について、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と記している。日本の安全と生存の根拠として頼るのが、「平和を愛する諸国民の公正と信義」であるという。「諸国民」だけではなくて、「平和を愛する」という限定に、いくらか救われる思いがする。平和を愛さない人たちもいるように思われるからである。

そして、そのあり方を翻訳、解釈すれば、それは国連中心主義となるかもしれない。しかし、国連は武力を否定してはいない。国連主導の多国籍軍もある。だから、憲法9条の字面における絶対非戦主義は、そこでは機能しないのではないかという危惧もあるかも知れない。

また、日本の安全保障に関しては、その他の選択もある。日米同盟である。これは、現実の選択になっている。しかし、日米同盟は憲法との関係から、問題にされてきたし、これからもそうだろう。もし、憲法が最高法規であれば、日米同盟は、憲法違反かも知れない。そういう思いはあったし、今も、そう思っている人たちはいるだろう。しかし、日米同盟の根拠である条約は、憲法の下にあるのではない。だから、憲法違反という判断は当らないという理解が通用している。

要するに、現実の政治世界にあっては、日本の憲法は理想主義的すぎるのである。絶対非戦主義で、政治を行うことが出来るのだろうか。

憲法9条は何を目指しているのだろうか。それはキリストの再臨を目指していると思う。しかし、それは信仰上の事柄であり、それを政治の世界に適用するには、どこか無理がある。現実の政治では、共産党も9条を守れという。この点では、キリストとマルクスの共闘が成り立つのだろうか。どこか、おかしいのではないだろうか。

絶対非戦主義で思い出すのは、内村鑑三である。もし、彼が生きていたら、現在の日本の立場をどう見るであろうか。自分の主張が日本の立場になっていると知って、さぞ驚愕するであろうか。憲法の精神を生かすためには、どうしたらよいのだろうか。国連、米国、それらとの連携の中で、日本の安全を保持するという現実路線ではなくて、その真の狙いは、キリストの再臨を指しているという指摘をするかも知れない。現実の政治の世界の中では、絶対非戦主義というものは、それ以外に考えられないと思われるのである。再臨の時、その国(神の国)に戦争はない。戦争はやむ。その来るべき国との関係の中でのみ、絶対非戦主義は成り立つとすれば、日本は、その憲法において、そのような国の到来を暗示しているのではないだろうか。

かつて、京都大学の故武藤一雄教授は、憲法の神的起源を思いつつ、小冊子を作られたことがあった。そういう関連を考えるのは、キリスト者のみであろうが、その責任を誰が担っているのだろうか。

政権交代のこの時、憲法について考えてみるのは無意味なことではない。

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