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2009年10月28日 (水)

信仰義認について

ウィキペディアの「信仰義認」の項目によると、1999年10月31日に、ルーテル世界連盟とカトリック教会の間で合意された「義認の教理についての共同宣言」に関して、「ルーテル教会内のリベラル派は、このことをもってカトリック教会が信仰義認の教理を自派に適用したと看做しているが、ルーテル教会内の保守派はそのような解釈を拒んでいる」と解説しています。

ルーテル教会内の保守派というのは、ルーテル世界連盟に加盟していないルーテル教会なのでしょう。しかし、その反対理由はどんなものか、と思いました。また、あの合意に関する批判があるということも、今回、知りました。そのような立場の人たちと、再度の対話はできないものでしょうか。

それに、もう一つの気がかりがあります。「このことをもってカトリック教会が信仰義認の教理を自派に適用したと看做している」という点ですが、もともと、合意の内容はカトリックの教えだったのではないかと、ということです。そして、そのカギは、新生と聖化との関係なのだと、私は思います。

新生に関しては、信仰義認という完全に受動的な姿勢が妥当しますが、聖化の場合は、能動的姿勢が求められるのではないでしょうか。そして、健全な聖化論に立つのであれば、信仰義認において生まれた疑問、善行無用論の生まれる余地はなくなると思います。新生と聖化の関係の考察を深めていけば、信仰義認と行為義認の問題の理解も深まるのではないかと思います。

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2009年10月27日 (火)

日本教について

日本教というのは山本七平によって知られるようになった言葉と思うが、その内容については、芥川龍之介や遠藤周作が小説や評論を通して指摘していると思う。日本の無限包容的雑居性という宗教に関する民族的体質のことを指していると思う。そして、遠藤は、この日本教(汎神論的体質)へのカトリック(一神論)の対決という図式の中で、自分の中にある日本教的体質を逆に確認してもいる。

日本におけるキリスト教の宣教は16世紀に始まったが、それは禁教、鎖国、殉教という悲劇の歴史をたどった。当時の殉教者たちの列福が近年行われたのは、その信仰への関心を高めるであろうが、同時に、当時の宣教のあり方の検証も求められるのではないだろうか。その時、再び、日本教とキリスト教との関係という課題が取り上げられるのかも知れない。

日本におけるキリスト教の宣教は、日本教との対決という形では、進展していかないのではないかと思う。日本教を受容した形でのキリスト教宣教が、これから求められる宣教の形ではないだろうか。カトリック教会では、対話という形で、このような方向へのシフト換えが行われているかと思うが、対話を超えるものもまた必要とされるかも知れない。すなわち超越である。キリストの再臨である。

日本教とは無限包容の精神である。島国日本において、それは十分に理解される。だから、キリスト教もその中に包容されてしまうのである。それに対して対決していく時、キリスト教は日本から逆に排除されてしまうのではないだろうか。それが過去の宣教史の明らかにしているところではないのだろうか。

過去の、地球上のどこかで出来た信条や、規則に拘泥し、それを絶対化していたら、日本教との対決は避けられないであろう。そこに無教会の意味が隠されているのかも知れない。内村は、日本に対しては、弁証法的に関わることが出来た。ある時は、日本教との対決の様相を示していたが、同時に、日本教の真髄に生きる姿勢も見せることが出来た。それは、世俗の、現実の日本ではなかったが、それらと無関係でもなかった。

日本教と対決するという、同じ土俵の中で争うのでは、キリスト教もまた、この世の事柄となってしまうのではないだろうか。日本に対する否定と肯定、この二つが、キリスト者の姿勢においてありうるのではないだろうか。内村の生涯は、それが可能であり、要請されているのだと教えてくれると思う。

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2009年10月26日 (月)

なぜ中世か

このブログの名前に中世という言葉がある。それは日本の中世ではない。西洋の中世である。今も、なお、追求すべき目標である。もちろん、それは歴史的中世ではない。しかし、歴史的中世と無関係でもない。だから、「新しき中世」である。では歴史的中世の中で、なお将来に待ち望むべき要素は何か。遠藤周作は『文学と想像力』の中で、中世を、こう描いている。

「中世は少なくとも地上の地上をこえたもの、人間の世界と永遠と世界、自然世界と超自然の世界とが交流し、対話していた時代なのである。人々は地上に生きることによって永遠につながっていたし、この現実を通して現実をこえたものをながめてえたのである。つまりキリスト教がこの二つの領域の橋わたしをやってくれたのだ。それは中世の教会をみれば私たちにはっきりわかるのである。どっしりと大地に根をおろした教会は、人間の地上における努力、人間の地上における営みをしめしている。しかもこの努力や営みは地上の尖塔を通して、空にむいているのである。永遠の世界につながっているのである。このように地上と天上との対話こそが中世の理想だった」

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2009年10月25日 (日)

仏教と実存思想

仏教と実存思想という観点では、親鸞の絶対他力信仰をまず思い浮かべる。人間の限界の意識が、実存思想の前提だからである。

それに対照的なのが禅宗であろうか。しかし、禅宗が自力救済の宗教と言われるのは、どうかと思われる。道元の「身心脱落、脱落身心」の言葉の意味を考えてのことである。この言葉の意味が、キリスト教における回心、あるいは新生であれば、それは実存思想の核心に根ざしているとはいえないだろうか。そうではなくて、自力救済の中の一つの段階として位置づけられる時、この言葉の重みは半減していくであろう。しかし、西田幾多郎が、座禅の中から意味深い弁証法的思想を見つけていったことを思えば、やはり、禅宗は単なる自力救済の宗教ではないと思いたくなる。

実存思想の典型的生き方は、意外と思われるが、美空ひばりの言葉として伝わっている「今日の我に明日は勝つ」という生き方であろうかと思う。常に自分を超えて行くという生き方である。キリスト教の中では、新生は十字架に、また聖化は再臨という、自分の外の客観的な事柄に結びつく必要があると思われる。しかし、教会が再臨への関心を失っているところでは、実存的生き方、また思想を放棄しているのではないかと危惧されるところである。十字架は新生前の人にとっては実存を可能にする契機であり、聖化の段階の人たち、すなわちキリスト者たちにとっては、十字架よりも、むしろ再臨の意識化が実存を生活化するために必要なのだと思う。

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2009年10月19日 (月)

再臨あれこれ

再臨はキリスト教信仰の中で、一つの信仰個条として確認されている。しかし、それが、どんなものかについては、将来のことでもあり、明確には分からないかも知れない。そんななかで、空中再臨と地上再臨ということも言われている。再臨の本来の姿は地上再臨なのかも知れないが、聖書の記述に関して、空中再臨も言われている。一般には、これらは、将来のことであるとされている。

空中再臨と地上再臨とは、どういう関係にあるのか。また、千年王国と再臨とは、どんな関係にあるのか。そして、聖霊降臨は、これらと、どういう関係にあるのか。これらの課題に、私は関心はあるが、教会では、余り触れられていないであろう。教会で再臨が話題になることもないであろう。そういう意味では、私の意識は、内村鑑三らの再臨運動の時に近いかも知れない。

今まで、いろいろと雑文を書いてきたが、再臨信仰は重要であるという思いは今も変わっていないし、これからも不変であろう。その重要性の解説は、これからも続けていこうと思う。

ところで、再臨の時制に関しては未来であろうが、それは地上再臨のことである。空中再臨に関しては、どうなのだろうか。それも未来というのが一般的理解かも知れない。しかし、それでは、地上も空中も、同一の理解の仕方をしているように思われる。再臨信仰が成立するためには、空中再臨は現在であるという理解が必要ではないかと思う。これが再臨信仰の要なのかも知れない。

再臨については、キリスト教関係の書物が多くても、余り触れていないような気がするが、その意味では、このブログの希少価値は高いであろう。

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2009年10月14日 (水)

日の丸・君が代・天皇制

日曜日のお昼ごろ、四谷のカトリック教会の周辺が騒がしかった。日の丸の旗が何本も立ち並び、拡声器で抗議している人がいた。時々、「わっー!」という喚声があがって、道行く人の足を止めていた。周囲は警察官が取り囲んでいた。拡声器からは教会への批判も聞かれた。歴史上の、よく知られた教会の「罪」の糾弾がなされた。信者も、白人の「奴隷」といった位置づけで語られた。あの、信長・秀吉・家康時代の教会の位置づけが、そのまま踏襲されているような気もした。

日の丸・君が代・天皇制は、日本のキリスト教会としては、なじまないテーマかも知れない。戦争中のことを考えれば、これらの名前によって、戦争に駆り出され、多くの人たちが死んでいったからだ。当時、反対できなかったという反省の中で、教会は、日の丸・君が代・天皇制に呑み込まれない立場を作ろうとしているように思う。

しかし、今、戦前・戦中とは違う体制になっている。天皇制も象徴天皇制で、天皇は国民統合の象徴とされている。そんな中で、日の丸・君が代も、新しい解釈が可能なのではないだろうか。

日の丸は太陽をかたどっている。太陽の光と熱を思う。それは人間存在の絶対必要条件ではないだろうか。神と、どこか通じるものがありそうでもある。日本人は、この太陽に着目したということは、そこに自然神学的な神がいてもいいのではないだろうか。それはまた真の神の象徴でもある。そこに連続と非連続もある。太陽の光と熱、それを全世界に供給する使命、それが日本の使命ではないだろうか。太陽の光と熱は、日本人のためばかりではない、それは世界のためでもある。そう思いつつ、「我は日本のために、日本は世界のために」といった内村鑑三を思い出した。内村の愛国心の対象であった日本に、少し近づいたかとも、思った。そして、そんな日本のイメージは、賀川豊彦にはなかったようにも思う。賀川の方が、世界的には有名かも知れないけれど。

長部日出雄さんの近著『「君が代」肯定論 世界に誇れる日本美ベストテン』(小学館新書)を読んだ。共感した。右翼ではない、右翼になろうとも思わない。しかし、日の丸・君が代・天皇制を右翼にばかり任せたいとも思わない。右翼とは別のスタンスで、それらにコミットしたい。政権が交代し、新しい国家像が求められている、この時、日の丸・君が代・天皇制は、もう一度、取り上げられなければならないテーマとなりつつあると思う。

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2009年10月13日 (火)

井上筑後守政重

Rimg0280 文京区の小日向にキリシタン屋敷跡がある(写真)。関心はあったが、訪ねたことはなかった。しかし、最近、その屋敷跡に行った。二つの碑が立っているだけであった。

ここは、江戸幕府の大目付、井上政重の下屋敷だった所で、ここでキリシタンの尋問、処刑が行われた。

牢は正保3(1646)年に建てられたという。1637-38年の島原の乱の5年後、来日したイタリア人宣教師を江戸・小伝馬町の牢に入れて、その後、ここに牢や番所まで作って、キリシタンたちの牢屋敷になったともいう。しかし、1724年の火災にあい、その後、寛政4(1792)年、宗門改役(キリシタン奉行)は廃止された。

ところで、井上政重は、井上筑後守政重ともいう。1632年に大目付になり、島原の乱の鎮圧に参加、1640年に宗門改役を兼ねて、キリシタン弾圧の中心人物になった。

しかし、井上は、もとキリシタンであったという。キリシタン大名、蒲生氏郷に仕えた時にキリスト教を信じたが、1614年に禁教令が出て、教えを捨てた、浪人し、仕官を求めていた時に棄教したという。

蒲生氏郷(1556-1595)という人物は、満39(あるいは38)歳で死去している。なんと若いことか。信長、秀吉の側にあり、キリスト教に入信し、洗礼名はレオンといった。1590年の小田原征伐で功績があった。34歳の時であろうか。そのため、その後、会津の殿様になった人だ。会津にいたのは、5年くらいのものであろうか。その時の家来が井上だったのかも知れない。であれば、井上も会津に関係があるのかも知れない。

さて、その井上は、言ってみれば「転び」であったのだ。だから、その教えについても、よく分かっていたのだろう。その矛盾についても。

遠藤周作は、この井上や、転んだ外国人神父などを題材にして、小説『沈黙』を書いた。しかし、井上を主人公にして、その論理、心理を書いたら、どうだろうか。遠藤に、その意図はなかったのだろうか。遠藤の後継者の登場が待たれるのである。

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武田友寿さん

武田友寿さん、インターネットで調べたら、60歳で亡くなっていた。余りにも若いと言おうか。写真では、私よりも、年寄りに見えるが、私の方が実際は年寄りである。嗚呼。1931年1月16日の生まれで、1991年2月1日に帰天されていた。

カトリックの文芸評論家として知られていたが、内村鑑三に関する本も何冊か出されていた。『季刊創造』の編集長でもあった。

カトリックと無教会との関係に関心がある私としては、武田さんの本を、もう一度、じっくりと読み返してみたいとも思う。

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2009年10月12日 (月)

歌作り

生活の 遊びで始む 歌作り
 遊びであれば 長く続けん

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挑戦状

五輪の地 被爆の両市 名乗り挙ぐ
 挑戦状の 如くにも似て

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日本の大掃除

日本の 大掃除せよ 大掃除
 新政権は 果断に進む

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2009年10月 6日 (火)

藤原正彦氏の講演会

藤原正彦氏(御茶の水女子大学名誉教授)の講演会が10月16日(金)午後6時45分から8時半まで、四谷の聖イグナチオ教会主聖堂であります。題は「日本のこれから」。同教会真和会の第250回特別記念講演会です。

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内村と塚本

晩年の内村鑑三と塚本虎二との関係をどう見たらいいのだろうか。

内村は強力な直球投手であったが、同時に変化球も投げることができた。しかし、彼の弟子たちは、この両方が同時に出来なかったのかも知れない。塚本は直球を投げることは出来たが、変化球は苦手だったのかも知れない。

塚本は、自分の信仰は内村ゆずりだと言っている。直球投手の内村の信仰を受け継いだという意味だろうか。しかし、変化球投手でもあった内村にとっては、晩年の塚本には違和感を感じたのかも知れない。しかし、また、塚本の信仰に、かつての自分の信仰を見て、和解への心が働いたのではないだろうか。

内村をどう理解するか、今もなお課題であり続けている。

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吉満義彦をしのぶ会

毎年1回、吉満義彦先生の帰天(10月23日)を覚えて、しのぶ会を行っていますが、今年の日程は、来月(11月)の29日(日)午後2時から、四谷のサレジオ管区長館に決まりました。ミサと、その後、懇談の時がもたれます。興味のある方は、どなたでも参加できますが、当方へメール(VEM15720@nifty.ne.jp)していただくと、ありがたいです。

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