« 再臨あれこれ | トップページ | なぜ中世か »

2009年10月25日 (日)

仏教と実存思想

仏教と実存思想という観点では、親鸞の絶対他力信仰をまず思い浮かべる。人間の限界の意識が、実存思想の前提だからである。

それに対照的なのが禅宗であろうか。しかし、禅宗が自力救済の宗教と言われるのは、どうかと思われる。道元の「身心脱落、脱落身心」の言葉の意味を考えてのことである。この言葉の意味が、キリスト教における回心、あるいは新生であれば、それは実存思想の核心に根ざしているとはいえないだろうか。そうではなくて、自力救済の中の一つの段階として位置づけられる時、この言葉の重みは半減していくであろう。しかし、西田幾多郎が、座禅の中から意味深い弁証法的思想を見つけていったことを思えば、やはり、禅宗は単なる自力救済の宗教ではないと思いたくなる。

実存思想の典型的生き方は、意外と思われるが、美空ひばりの言葉として伝わっている「今日の我に明日は勝つ」という生き方であろうかと思う。常に自分を超えて行くという生き方である。キリスト教の中では、新生は十字架に、また聖化は再臨という、自分の外の客観的な事柄に結びつく必要があると思われる。しかし、教会が再臨への関心を失っているところでは、実存的生き方、また思想を放棄しているのではないかと危惧されるところである。十字架は新生前の人にとっては実存を可能にする契機であり、聖化の段階の人たち、すなわちキリスト者たちにとっては、十字架よりも、むしろ再臨の意識化が実存を生活化するために必要なのだと思う。

|

« 再臨あれこれ | トップページ | なぜ中世か »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 再臨あれこれ | トップページ | なぜ中世か »