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2009年10月19日 (月)

再臨あれこれ

再臨はキリスト教信仰の中で、一つの信仰個条として確認されている。しかし、それが、どんなものかについては、将来のことでもあり、明確には分からないかも知れない。そんななかで、空中再臨と地上再臨ということも言われている。再臨の本来の姿は地上再臨なのかも知れないが、聖書の記述に関して、空中再臨も言われている。一般には、これらは、将来のことであるとされている。

空中再臨と地上再臨とは、どういう関係にあるのか。また、千年王国と再臨とは、どんな関係にあるのか。そして、聖霊降臨は、これらと、どういう関係にあるのか。これらの課題に、私は関心はあるが、教会では、余り触れられていないであろう。教会で再臨が話題になることもないであろう。そういう意味では、私の意識は、内村鑑三らの再臨運動の時に近いかも知れない。

今まで、いろいろと雑文を書いてきたが、再臨信仰は重要であるという思いは今も変わっていないし、これからも不変であろう。その重要性の解説は、これからも続けていこうと思う。

ところで、再臨の時制に関しては未来であろうが、それは地上再臨のことである。空中再臨に関しては、どうなのだろうか。それも未来というのが一般的理解かも知れない。しかし、それでは、地上も空中も、同一の理解の仕方をしているように思われる。再臨信仰が成立するためには、空中再臨は現在であるという理解が必要ではないかと思う。これが再臨信仰の要なのかも知れない。

再臨については、キリスト教関係の書物が多くても、余り触れていないような気がするが、その意味では、このブログの希少価値は高いであろう。

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コメント

空中再臨の現在性に立つ信仰は、排除ではなくて、包括し超越する方向を示すものであろう。日本では、信徒も献身者も少ないと嘆く人が多いが、世界の他の地域のように、文化的土壌のない所では、キリスト教は、文化的要素も兼ねていて、そのために信徒が多くなるのかも知れない。しかし、日本では、長い文化的、また他の宗教の伝統がある。それらに比較して、キリスト教はどうか。それらを超える実力を持っているのか。私には、そうは思えないところがある。その時、排除の論理だけで、宣教のアプローチをした時、行き詰るのは当然ではないのだろうか。日本にある、それらの文化的・宗教的・伝統的土壌は日本教と言われるかも知れないが、それらを排除しようとするのではなくて、包括し、かつ超越する視点が必要ではないかと思う。その時の、信仰の視線が空中再臨のキリストなのである、と私は思う。

空中再臨のキリストへの信仰は、教会一致を前進させる力があると思う。かつて、統一教会(世界基督教神霊統一協会)が、教会の一致を求めたのは正しいと思うが、その背景に、韓国人の文氏を再臨のキリストの立場に置いて、イエス在世当時のユダヤ教会の判断の歴史的間違いを正そうと、その立場にある教会に向けて文氏=再臨主の承認の方に向けようと努めたのは、少し無理があったように思う。そのような歴史観には、やはり、イエスの事業の失敗と、その再度の挑戦という意味合いが含まれているように思うが、そこから、十字架の失敗という、教会にとっては刺激的な言葉が、統一教会の人々から多く聞かれたのであろう。地上再臨は、空中再臨のあとのことである。空中再臨に関しては、教会は反対しないのではないだろうか。であれば、教会の一致、エキュメニズムは、その信仰の中で前進していくのではないだろうか。

投稿: | 2009年10月20日 (火) 11時23分

空中再臨は現在のことと言っても、現在進行形なのかも知れない。その起点は、聖霊降臨であろうか、それとも、ローマ帝国内におけるキリスト教の公認・国教化の過程なのであろうか。空中再臨は教会の携挙と関係して論じられているが、であれば、帝国内における公認・国教化が想起される。しかし、だいたいは、過去、現在のことではなくて、将来のこととして論じられているのではないだろうか。教会の携挙のあと、艱難時代が来るというが、そこには、教会が地上への神の恵みの導火線といって観念があるのだろうか。しかし、空中再臨とか、教会の携挙とか、一体何が言いたいのかという問いもあろうと思う。その中で、解釈の問題も出てくると思う。

投稿: | 2009年10月21日 (水) 07時33分

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