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2009年10月27日 (火)

日本教について

日本教というのは山本七平によって知られるようになった言葉と思うが、その内容については、芥川龍之介や遠藤周作が小説や評論を通して指摘していると思う。日本の無限包容的雑居性という宗教に関する民族的体質のことを指していると思う。そして、遠藤は、この日本教(汎神論的体質)へのカトリック(一神論)の対決という図式の中で、自分の中にある日本教的体質を逆に確認してもいる。

日本におけるキリスト教の宣教は16世紀に始まったが、それは禁教、鎖国、殉教という悲劇の歴史をたどった。当時の殉教者たちの列福が近年行われたのは、その信仰への関心を高めるであろうが、同時に、当時の宣教のあり方の検証も求められるのではないだろうか。その時、再び、日本教とキリスト教との関係という課題が取り上げられるのかも知れない。

日本におけるキリスト教の宣教は、日本教との対決という形では、進展していかないのではないかと思う。日本教を受容した形でのキリスト教宣教が、これから求められる宣教の形ではないだろうか。カトリック教会では、対話という形で、このような方向へのシフト換えが行われているかと思うが、対話を超えるものもまた必要とされるかも知れない。すなわち超越である。キリストの再臨である。

日本教とは無限包容の精神である。島国日本において、それは十分に理解される。だから、キリスト教もその中に包容されてしまうのである。それに対して対決していく時、キリスト教は日本から逆に排除されてしまうのではないだろうか。それが過去の宣教史の明らかにしているところではないのだろうか。

過去の、地球上のどこかで出来た信条や、規則に拘泥し、それを絶対化していたら、日本教との対決は避けられないであろう。そこに無教会の意味が隠されているのかも知れない。内村は、日本に対しては、弁証法的に関わることが出来た。ある時は、日本教との対決の様相を示していたが、同時に、日本教の真髄に生きる姿勢も見せることが出来た。それは、世俗の、現実の日本ではなかったが、それらと無関係でもなかった。

日本教と対決するという、同じ土俵の中で争うのでは、キリスト教もまた、この世の事柄となってしまうのではないだろうか。日本に対する否定と肯定、この二つが、キリスト者の姿勢においてありうるのではないだろうか。内村の生涯は、それが可能であり、要請されているのだと教えてくれると思う。

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コメント

日本教の「無限包容的雑居性」というものは、過去の西洋のキリスト教の過ちと課題に対する応答と貢献に役立つかも知れない。それは教派主義の克服である。宗教改革からのキリスト教にあって教派の「乱立」が生まれた。その中で、教派の壁はわずらわしいものとなった。日本教は、それらの壁を破るものを持っているのではないだろうか。その時、やはり再臨という信仰に目を向けさせる必要がある。第二の宗教改革、再臨、それらは内村鑑三の生涯の中で出てくるキーワードである。内村の信仰の遺産は、なお今でも有効かつ展開を待っているのではないだろうか。

投稿: | 2009年11月 5日 (木) 07時07分

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