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2009年11月25日 (水)

義認と義化

ルターは義認という。カトリックは反論として義化という。この二つは矛盾するのだろうか。見方の相違ではないのだろうか。

義認とは、義の衣をまとう意味である。義化とは、実際に義になるという意味である。

義認とは、人に信仰が現れた瞬間に、神が、その人を見た時のことであろう。その人は、古い人のままであるが、キリストの義の衣をまとっているために、神には義と見えるのである。それが基盤であることは、その通りであろう。しかし、それだけではない。その後、義認の判定に応じて、聖霊が下り、人は新しい人となる。聖霊が下って、人には何も起きないのかと言えば、何かが起きたのである。そのところに、義化の本質を見ることもできる。だから、義化とは、聖化と区別されるのであれば、聖化のスタートであろう。聖化の本質を語っているように思える。であれば、義認、義化とは、見方の相違で、矛盾するものではない。義認、義化、聖化、栄化と、人の真の成長は続くのかも知れない。

義認と義化、それらは、真理の一面を洞察している。それらが、すべてを語っているとすれば、反論が起きるのであろう。

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