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2010年1月10日 (日)

弔辞・遺言運動

小学生のころ、友だちの家で、お葬式ごっこといった遊びをした。私は死者になった。少し涙が出た。この遊びは長く忘れていたが、意識の底に眠っていた。こんな遊びも死を思うきっかけになるかも知れない。

子どものころ、死は怖いものであった。死の彼方が分からなかったからである。不安という意味の怖さと言ってもいいかも知れない。

映画「おくりびと」が注目された。葬儀やさんの物語である。肉体の死をめぐる物語である。しかし、肉体の死は、キリスト教的に言えば、魂の死への警告としての意味を持っている。そして、その意味を知らせることができた時、肉体の死の役割は終える。

生きることと死ぬことは切り離しえない。生きることを求めていても、人はやがては誰もが死ぬのである。この事実に目をつむることは出来ない。そのために、お葬式ごっこも、映画「おくりびと」も意味があるかも知れない。

「死を忘れるなかれ」が、その目的である。そして、その中から、生きることの意味を探ろうというのである。その時、何が現れてくるのだろうか。それは弔辞・遺言運動と言ってもいいのかも知れない。

今、司馬遼太郎さんの小説がテレビ放映されているが、司馬さんの活動もまた、その本質は、弔辞・遺言運動ではなかったろうか。

弔辞は、過去の死に対する言葉である。遺言は、未来の生に対する言葉である。この死も、この生も、ともに対象化されている。死について語り、生について語る、それは一つのこととしてつながっている。生だけを語ることも、死だけを語ることも間違いである。

多くの言葉が氾濫していても、死と生とのつながりを意識していないところで語られる言葉は、パスカルに思いをはせれば、所詮、気晴らしの類ではないかと思う。

弔辞・遺言運動、それはまた、「新しき中世」を志向する活動の本質でもある。

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コメント

弔辞・遺言運動は、遺言・弔辞運動ではない。遺言・弔辞運動は、自分の死に関するものであり、それは運動ではない。弔辞・遺言運動は、他者の死に関してであり、その死が、自分に重大な意味を持っているところから反復され、従って運動になるといった性質のものである。

投稿: | 2010年1月10日 (日) 23時42分

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