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2010年1月20日 (水)

四重の福音

四重の福音という言葉は、ホーリネス教会で使われている。それは信仰の要となる四つの教理のことで、新生・聖化・神癒・再臨を指している。ホーリネス系の教会の中には、新生・聖化の二つを強調するものもあり、それでもいいと思っていたが、やはり再臨は必要である。

近代日本で、再臨信仰を強調したのは内村鑑三であった。ホーリネス教会の中田重治も、内村の呼びかけに呼応して、再臨運動に参加した。内村が、この運動の中で、どんな主張をしていたのか、当時の『聖書之研究』を読み返してみたいと思ったが、『内村鑑三信仰著作全集13 最後審判 再臨 復活 来世』に、重要な文書が収められていると思う。

内村が再臨運動を提唱し、展開したのは、わずかな期間ではあったが、これによって、彼は、近代日本における忘れられない重要なキリスト者になったのだと、私は思う。他に、このような人物はいないからである。再臨について、その重要性を指摘していたのは、内村のほかには、中田重治がいたが、彼が、どんな主張をしていたのか、参考資料が手に入らない。その点でも、内村の資料はすぐ入手できるので、再臨というと、内村の「研究」を参照しないわけにはいかない。

再臨は、聖化の過程の中で、やがて捉えられていく信仰なのだと思う。そのことも、内村は指摘していた。全集には、教えられる点が多い。

中田重治の信仰は、四重の福音といわれるが、新生・聖化・再臨については異論はない。神癒に関しては、どういう理解なのだろうか。

内村は、「私は神癒を信じない」という。しかし、聖霊の賜物の中に、癒やし(神癒)はある。四重の福音の「神癒」とは、そのいくつかの聖霊の賜物の中の一つである「癒やし」を信じるという意味なのだろうか。そう受け止める人もいるかも知れないが、全体がそうではないとも思える。

多くの中の一つである「癒やし」への信仰の表明であれば、他の賜物である異言、預言などを、その一つを信じるといっても、同じことではないだろうか。聖霊の賜物の中の一つ「癒やし」だけを、特に取り上げる必要は、どこにあるのだろうか。

しかし、神癒信仰というものを広く捉えて、「聖霊の賜物への信仰」と解釈すれば、ペンテコステ運動、またその教会への理解も深まるのではないだろうか。たとえ、自分には、そのような賜物の一つが与えられていなくとも、それは信仰の欠くべからざる要素ではないと考えれば、それでいいのではないだろうか。

それは聖霊の働きに教会が目覚める点で大いに意味がある。しかし、それはやはり目標ではない。目標は再臨であり、再臨以外にはない。聖霊の賜物の理解において、教会同士の相互批判があっても、それを超えるのは再臨信仰であろう。

もちろん、再臨信仰においても一致があるとは限らない。内村の時と同様に批判があるかも知れない。しかし、そういう意識が教会の中に生まれるのであれば、日本の教会は大いに活性化されるであろう。

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