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2010年1月15日 (金)

行為の意味

信仰義認を強調するマルティン・ルターによって、「わらの書簡」と言われたヤコブ書だが、本当に価値のないものなのだろうか。問題は行為の捉え方にあるのだろう。どんな行為も神の義には届かない、従って救いの条件とはならない。その点では、ルターに同意する。しかし、行為は報われると聖書はいう。その報いは新生、義認に関連してではなく、再臨に関連して語られているのではないだろうか。そこには矛盾はない。

プロテスタントは初代教会に帰ることを目指したが、その再臨信仰にまで戻ったであろうか。内村鑑三は、そこまで戻ったのである。この点でも、彼が「第二の宗教改革」を目指す志を理解することができる。

再臨の時に、ある人たちを主はとがめられた。与えられた金を土の中にしまった人たちのことである。どういう人たちなのだろうか。水の洗礼は受けたが、新生に導かれず、従って聖化、栄化、再臨の信仰に至ることなく、主の再臨を迎えることになった人のことではないだろうか。

再臨信仰は、行為を誘発する。イエスの初臨の時には、学者たちが、イエスに会い、その前に捧げものを置いた。その捧げものが、行為なのではないか。手ぶらでイエスに会うわけにはいかない。その思いが、行為に向かわせるのではないか。

去年のクリスマスの時、説教は、ひとこと、再臨に触れた。初臨と再臨、その比較をもっとすべきではないのだろうか。再臨のキリストは、きっと、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアなのだろう。

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