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2010年3月28日 (日)

狭い国で

日本に  生まれて  ここに死ぬるかな 
  世界は広し  されど知らずに

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教派

教派というものは、プロテスタントの原理から生まれた近世、近代の特徴と言えるのではないか。聖書解釈の多様性の中で、多くの教派が生まれた。そこには、是と非があるだろう。私は、その是を否定する者ではない。しかし、非を自覚する者は、それによって何を目指しているのかを知らねばならない。

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再臨信仰

再臨信仰とは、包括的・超越的信仰のことである。「今日の我に明日は勝つ」という美空ひばりの言葉は、この信仰の性質をよく表している。実存的信仰といってもいいかも知れない。ウェスレーの「キリスト者の完全」という生の目標もまた、この中に含めることができる。それを含みつつ、さらに客観的視点があるので、探求を前進させることができるのである。

再臨の時を科学的・分析的に探ろうというのではない。そこには、信仰の主体の変革の視点はない。しかし、再臨信仰とは、信仰の主体の変革を求めている。聖者への意志である。その変革の中での洞察を重視するのである。再臨の時を科学的に追求しようという、過去の再臨信仰者の中に、聖者への意志はあったのであろうか。ウェスレーの「キリスト者の完全」とは、聖者への自己変革への意志を表している。その延長上に、再臨信仰がある。そのような位置づけが大切と思う。

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2010年3月25日 (木)

善の欠如

アウグスチヌスの語ったことに、「悪とは善の欠如」という言葉がある。最初、少し抵抗を覚えた。悪は、もっと積極的な何か、主体ではないのか。そんな思いがした。
しかし、悪とは、と問い、反省してみれば、それは、なければならぬものがない、という一面があろう。そんな立場から、悪とレッテルを貼られ、また貼る場合もあろう。そこには、あるべきものが「ない」という理由がある。それが悪の正体であるとの判断である。
しかし、見方を変えて、善の欠如であれば、被造物は、すなわち、存在しているものは、何であれ、善でないものはない、という観点が生まれるのではないだろうか。存在と善とは、言葉は違うが、ひとつのものであるかも知れない。
であれば、善も悪も、その人の見方次第ともいえるかも知れない。自分の眼鏡を変えてみれば、それまで悪と見えていたものも、善と見えるも知れない。もし、それが神の国であれば、それは眼鏡を変えた時に見えてくる風景なのであろう。

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2010年3月23日 (火)

信仰の完成

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか」(ヘブル人への手紙6・1)

内村鑑三は、信仰の三段階を指摘していた。札幌時代の入信、シーリー学長に教えられた回心、そして再臨信仰であった。キリスト教信仰には、やはり成長があるように思う。そして、この成長を教えられる必要があるのではないだろうか。いつまでも、初歩的段階に止まっていては、いかにも残念である。

『日本人の回心』(野村耕三著、新教出版社)には、「成熟した信仰」に関して、このような記述がある。

「私は成熟した信仰は、神認識、罪意識の自覚、贖罪信仰、復活信仰、再臨信仰へのプロセスを取ると考えている」(24頁)

同感である。この場合の神認識は、もちろん、啓示の内容ではなく、神の存在という自然的認識のことであろう。そして、罪の自覚は、人間の限界性の自覚であり、実存意識の芽生えといっていいかも知れない。そして、贖罪信仰は新生に対応し、復活信仰は聖化に対応しているかも知れない。最後の再臨信仰は、復活信仰の徹底という観点を持ちながら、もっとスケールの大きなものであろう。

ルターは贖罪信仰の再確認を促しているとすれば、ウェスレーは復活信仰の強調であろうか。もちろん、聖霊の臨在体験を意味している。しかし、ウェスレーの「キリスト者の完全」は、何か個人的な視点への集中のように思われるが、それを保持しつつ、再臨信仰は、もっと宇宙的、客観的視点が加わっていると思う。

しかし、信仰に入って、そこまでいかない信徒がいると思う。あるいは、贖罪信仰どまり、あるいは復活信仰どまりで、信仰の成熟が見られないというのは残念である。信仰の成熟のためには、最後の信仰の形態を知らされる必要がある。それが再臨信仰である。再臨信仰の形成に努める時、そこには、贖罪信仰も、復活信仰も含まれているのである。我々は、ルター、ウェスレーに感謝しつつ、彼らを超える最終的信仰の形成を目指さなければならないと思う。

もっと単純化して言えば、十字架と再臨である。キリスト教信仰とは、この二つの関係の中に隠されていると思う。どちらか一つだけではだめで、二つが必要である。

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2010年3月21日 (日)

オウム真理教

オウム真理教の地下鉄サリン事件から15年たった。事件は、1995年3月20日に起きた。その教えの中に、ハルマゲドンという言葉が出てくる。これは、この教えが属する仏教の言葉ではなく、キリスト教の言葉である。世界最終戦争の意味である。しかし、現実的には、どんなものが想像されるのだろうか。それが、将来にあるとしたら、それは、どんなものになるのだろうか。

国家間の戦いとしての、やがて第三次世界大戦があるのだろうか。しかし、それは、どのようにして起きるのだろうか。そんなことを少し考えてみるのもいいのではないか。このグローバル時代に、そして、様々な国際機関が活動している現代において、国家間の戦争の可能性があるのか。テロとの戦いはあるが、それを戦争と呼ぶのであれば、それは現在の課題でもあるけれど。

しかし、それよりも、オウム真理教のようなものが現代の日本に存在したという謎も大きいように思う。

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2010年3月16日 (火)

千年王国論

千年王国論は、宗教改革後、英国のピューリタンたちの中で盛んに論じられた。そこには、再臨との関係もある。キリスト教の終末論には、再臨と千年王国がテーマとしてある。だから、再臨を論じようと思って、千年王国を論じないではおれない。

私は、基本的にはアウグスチヌスの説でいいのではないかと思っている。教会の歴史とだぶらせている。しかし、教会の歴史が、そのまま千年王国なのではない。時に、離れることもあるかも知れない。それが中世末期であったかも知れない。だから、宗教改革が起きた。そして、千年王国論も生まれた。千年王国は、教会の目的である。カトリックの教会観の中に「道具」という自己理解がある。教会の奉仕する目的が、歴史的な枠の中では千年王国なのではないだろうか。

時に、「神の国」といった言葉もある。神の国と千年王国とは、どういう関係にあるのだろうか。

神の国とは、本当に最終的なものである。千年王国とは、やがて最後の時に荒らされるというのであるから、歴史的な要素を含んでいる。その違いがあるのだと思う。神の国も、千年王国も不可見的なものである。そして、可見的なものとして教会がある。教会は、自己の中に、神の国、千年王国を含んでいる。しかし、完全には一致していないであろう。だから、教会に分裂があり、教会観の混乱が生じる。

諸教会の一致を求めていく時、見える教会の一致を求めていては、議論が行き詰るかも知れない。互いに警戒感もあり、主張の違いは、自己のアイデンティティにも関係しているからである。

しかし、神の国では一致できるであろう。そして、千年王国でも一致できるのではないだろうか。もちろん、「千年王国はまだ」という立場の人であれば、そこには基本的な違いがあるかも知れない。「まだ」の立場が、千年王国論の中心という理解もあるけれど、その中では聖霊降臨は、どういう位置づけなのだろうか。また、あの初代教会の殉教の歴史の終焉を、どう解釈しているのだろうか。

千年王国論は、教会の分裂の原因であるかも知れないが、見方を変えれば、あるいは一致を進めるかも知れない。

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2010年3月15日 (月)

先祖供養

先祖供養は、仏教の言葉である。しかし、キリスト教でも、カトリックでは、煉獄との関連で、「先祖供養」を「容認」している面もある。プロテスタントでは、一般的にはしないが、中には禁じている教派もあるかも知れない。死者のための洗礼をするプロテスタント教会もあるというが、これも、あるいは先祖供養的と言えるかも知れない。

先祖供養は、これをする場合は、まず死者のためであろう。しかし、先祖を問うことは、翻って、自分を問うことでもあるのではないだろうか。であれば、自己実現のためには、あるいは必要なことかも知れない。こういう視点もあるということは大切と思う。

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中世と千年王国

教皇が皇帝の上に位置している中世の原理の中に、サタンを抑えつけるという千年王国の本質があるのではないだろうか。近世の初め、その発展としての近代の中に、なにか人が神のようになるという蛇の誘惑への受諾があったのではないか。
カトリックへの改宗者にとって、中世は無視できないだろう。その時、古い中世への回帰を志向するよりも、新しい中世を求める方がよいと思う。中世回帰か、それとも中世創造か、このあたりの誤解が、遠藤周作と吉満義彦との対話の中にあったかも知れない。
歴史的中世とは文明の総合であった。近世とは、その解体、分解の過程であった。新しき中世とは、再び、歴史的中世の目指した総合志向である。そんな目で、現代日本を眺めれば、その第一人者は、創価学会の池田大作氏であるかも知れない。
池田氏が、世界の著名人と対話を重ねていることは、大いに評価できることである。しかし、これは日蓮の教えに沿っているのだろうか。なぜなら、日蓮の教えの排他的性格は、むしろ原理主義的に思えるからである。そんな思いも感じている。

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2010年3月14日 (日)

シー・シェパードのこと

シー・シェパードの船長が違法行為のため、逮捕された。盛んに報道されている。それらを読んでも、やはり異常だと思う。しかし、違法行為を行い、そのマスコミ効果を見込んで、人々を目覚めさせようという発想は、日本でも、かつてあったのではないだろうか。昭和40年代の大学紛争のことを考えている。しかし、私には、やはりやり方が間違っていたとしか思えない。

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高校卒業式

名前呼ぶ  教師に嗚咽  三年の

    思いが襲う  春の門出に

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2010年3月12日 (金)

ルターの生涯

ルターの生涯は1483年から1546年までである。闇(83)から白(46)い光が登った、という具合に覚えたらいいと、ある無教会の人に教えられた。16世紀の人だから、1500年代は当然のことである。

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2010年3月10日 (水)

ニヒリズム

生きる意味、生きる目的は自己実現にあるということは、一応、理解できる。その自己とは、自分の可能性であり、自分の行くところである。そのような目標なくして生きることは、人間には耐えられないであろう。

しかし、死が、その前に立ちはだかり、生きる意味の無意味さを強く訴えているのではないだろうか。そのことは、意識にはニヒリズムとして捉えられる。

ニヒリズムの克服をどうするのか。西谷啓治氏は、かつて、この問題に取り組んで、本を書かれた。宗教とは、ある意味でニヒリズムの克服であると思う。

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2010年3月 7日 (日)

二つ、そして一つの福音

知らねばならぬのは、一つだけ。それは、福音である。その福音は、まず十字架の福音である。その門をくぐった人においては、再臨の信仰である。十字架と再臨、これが人が、知らねばならぬことである。未信者には十字架の福音、信者には再臨の信仰、これに集約される。これらは二つだが、一つの福音である。信者への再臨信仰への導き、これが必要ではないだろうか。

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再臨主

統一教会(世界基督教統一神霊協会)の文鮮明氏を再臨主という言葉で呼ぶ人がいた。そこには、イエスの事業の失敗により、その使命を文氏が継承したという解釈があった。そのイエスの事業の失敗という言い方が、一般のキリスト者には異様に聞こえた。

普通は、再臨は初臨の失敗により要請されているのではなく、その完成のためではないだろうか。初臨の「成果」は聖霊降臨である。この宗教体験の中で、イエスの復活、昇天も受け入れられるのではないだろうか。そして、この点を中心に考えれば、イエスの事業は失敗ではなく、成功したのであろう。だから、一般の教会と統一教会との間には、再臨解釈の違いがあるのだろう。

再臨問題をめぐって、いくつかの教派が生まれている。セブンスデー・アドベンティスト教会、ものみの塔などである。統一教会も、再臨問題への、ひとつの解釈の中で生まれたといえるかも知れない。これらの教派は、ある意味で、再臨解釈を一般の教会に問うているのかも知れない。

しかし、統一教会は、ある意味ではイエスの意識を持っていたのかも知れない。キリスト教会へのアプローチ、そして教会が自分たちを受け入れることへの執着、そこには、イエスがユダヤ人たちへ福音を宣教した初臨の時の活動と思いが重ね合わせられているのであろうか。諸教会が統一教会を受け入れる中に、イエスの時に失敗した神の摂理の成就を見ていたのであろうか。

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2010年3月 5日 (金)

千年王国

再臨にからんで千年王国の問題がある。この千年王国とは、一体、何なのだろうか。アウグスチヌスの説があり、その説を受けて、カトリック教会の教えがある。もっとも、教えと言えるようなものではないかも知れない。その説と、千年王国の前にキリストの再臨があるとの教えを総合すれば、再臨は既にあったということになる。では、いつ。帝国の中で、キリスト教が公認され、国教になっていく過程を考えるしかないであろう。そのような再臨解釈の明示に接したことはないけれど、暗に考えられているのかも知れない。

再臨信仰は初代教会では強かった。しかし、やがて薄れていった。そこには、キリスト教の公認、国教化があったのではないだろうか。国教になることにより、この世のことに忙しくなり、再臨については、関心が遠のいたのであろうとは、容易に想像できる。

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聖人

もうだいぶ前のことである。遠藤周作氏の一周忌の会があり、旧知のプロテスタントの牧師に会った。「カトリックには、聖人があるからね」、と、ふと漏らした。死んだ信仰者の扱い方に、納得できないものを感じているように思われた。

カトリック教会には、聖人がいて、福者がいる。信仰に生きた死者に対しての教会の応答であろうか。

このような作業は、プロテスタントにはないため、何のため、といった問いがあるのだろう。それは、あるいは、カトリックの信徒の中にもあるかもしれない。ただ、カトリックの信徒の場合には、あまり信仰を表明しないので、問いが表に現れないのかもしれない。

この、聖人、福者といった死者の位は、あるいは千年王国と関連しているのではないかと、私は今、思っている。少し、説明しなければならないが、今は、まだできない。ただアイディアのみである。

もちろん、カトリックでは、千年王国は、比喩として受け取っているが、プロテスタントでは、再臨との関係で、様々に解釈されている。この領域に、対話と理解が必要ではないだろうか。まあ、少しずつ取り組んでいこう。しかし、テーマそのものは、いたって現代的ではないだろうか。時代の目的、究極的目的を問うのであるから。

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安息日再臨派

本を読んでいると、安息日再臨派という言葉に出合った。セブンスデー・アドベンチスト教会のことである。この教派には、これまで、あまり関心がなかった。

なぜ、安息日(土曜日)を重視するのか。キリスト教では、その議論は、もう決着がついたのではないだろうか。そして、再臨の日を決めてしまったという発端から、その後の展開にも、何か釈然としないののがあるように感じていた。

しかし、内村鑑三の再臨信仰に触発されて、過去の教会史における再臨問題にも関心を持つようになった。そこから、この教派にも、ある程度の関心が出てきた。

もし、この教派に理解を示すのであれば、安息日重視は、旧約重視の意味で受け止めればよいかもしれない。キリスト教は、旧約を聖書として重んじているのである。そして、再臨の強調は、その信仰の起源が、どのようなものであったとしても、正統信仰の中で否定されてはいなだろう。

旧約重視、再臨重視の二つの観点は、大切なことであろう。そういうメッセージを全教会に提示していると見れば、この教派への関心も増すかもしれない。しかし、余りにも、大雑把な捉え方かも知れない。

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