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2010年3月25日 (木)

善の欠如

アウグスチヌスの語ったことに、「悪とは善の欠如」という言葉がある。最初、少し抵抗を覚えた。悪は、もっと積極的な何か、主体ではないのか。そんな思いがした。
しかし、悪とは、と問い、反省してみれば、それは、なければならぬものがない、という一面があろう。そんな立場から、悪とレッテルを貼られ、また貼る場合もあろう。そこには、あるべきものが「ない」という理由がある。それが悪の正体であるとの判断である。
しかし、見方を変えて、善の欠如であれば、被造物は、すなわち、存在しているものは、何であれ、善でないものはない、という観点が生まれるのではないだろうか。存在と善とは、言葉は違うが、ひとつのものであるかも知れない。
であれば、善も悪も、その人の見方次第ともいえるかも知れない。自分の眼鏡を変えてみれば、それまで悪と見えていたものも、善と見えるも知れない。もし、それが神の国であれば、それは眼鏡を変えた時に見えてくる風景なのであろう。

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