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2010年3月23日 (火)

信仰の完成

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか」(ヘブル人への手紙6・1)

内村鑑三は、信仰の三段階を指摘していた。札幌時代の入信、シーリー学長に教えられた回心、そして再臨信仰であった。キリスト教信仰には、やはり成長があるように思う。そして、この成長を教えられる必要があるのではないだろうか。いつまでも、初歩的段階に止まっていては、いかにも残念である。

『日本人の回心』(野村耕三著、新教出版社)には、「成熟した信仰」に関して、このような記述がある。

「私は成熟した信仰は、神認識、罪意識の自覚、贖罪信仰、復活信仰、再臨信仰へのプロセスを取ると考えている」(24頁)

同感である。この場合の神認識は、もちろん、啓示の内容ではなく、神の存在という自然的認識のことであろう。そして、罪の自覚は、人間の限界性の自覚であり、実存意識の芽生えといっていいかも知れない。そして、贖罪信仰は新生に対応し、復活信仰は聖化に対応しているかも知れない。最後の再臨信仰は、復活信仰の徹底という観点を持ちながら、もっとスケールの大きなものであろう。

ルターは贖罪信仰の再確認を促しているとすれば、ウェスレーは復活信仰の強調であろうか。もちろん、聖霊の臨在体験を意味している。しかし、ウェスレーの「キリスト者の完全」は、何か個人的な視点への集中のように思われるが、それを保持しつつ、再臨信仰は、もっと宇宙的、客観的視点が加わっていると思う。

しかし、信仰に入って、そこまでいかない信徒がいると思う。あるいは、贖罪信仰どまり、あるいは復活信仰どまりで、信仰の成熟が見られないというのは残念である。信仰の成熟のためには、最後の信仰の形態を知らされる必要がある。それが再臨信仰である。再臨信仰の形成に努める時、そこには、贖罪信仰も、復活信仰も含まれているのである。我々は、ルター、ウェスレーに感謝しつつ、彼らを超える最終的信仰の形成を目指さなければならないと思う。

もっと単純化して言えば、十字架と再臨である。キリスト教信仰とは、この二つの関係の中に隠されていると思う。どちらか一つだけではだめで、二つが必要である。

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