« 先祖供養 | トップページ | オウム真理教 »

2010年3月16日 (火)

千年王国論

千年王国論は、宗教改革後、英国のピューリタンたちの中で盛んに論じられた。そこには、再臨との関係もある。キリスト教の終末論には、再臨と千年王国がテーマとしてある。だから、再臨を論じようと思って、千年王国を論じないではおれない。

私は、基本的にはアウグスチヌスの説でいいのではないかと思っている。教会の歴史とだぶらせている。しかし、教会の歴史が、そのまま千年王国なのではない。時に、離れることもあるかも知れない。それが中世末期であったかも知れない。だから、宗教改革が起きた。そして、千年王国論も生まれた。千年王国は、教会の目的である。カトリックの教会観の中に「道具」という自己理解がある。教会の奉仕する目的が、歴史的な枠の中では千年王国なのではないだろうか。

時に、「神の国」といった言葉もある。神の国と千年王国とは、どういう関係にあるのだろうか。

神の国とは、本当に最終的なものである。千年王国とは、やがて最後の時に荒らされるというのであるから、歴史的な要素を含んでいる。その違いがあるのだと思う。神の国も、千年王国も不可見的なものである。そして、可見的なものとして教会がある。教会は、自己の中に、神の国、千年王国を含んでいる。しかし、完全には一致していないであろう。だから、教会に分裂があり、教会観の混乱が生じる。

諸教会の一致を求めていく時、見える教会の一致を求めていては、議論が行き詰るかも知れない。互いに警戒感もあり、主張の違いは、自己のアイデンティティにも関係しているからである。

しかし、神の国では一致できるであろう。そして、千年王国でも一致できるのではないだろうか。もちろん、「千年王国はまだ」という立場の人であれば、そこには基本的な違いがあるかも知れない。「まだ」の立場が、千年王国論の中心という理解もあるけれど、その中では聖霊降臨は、どういう位置づけなのだろうか。また、あの初代教会の殉教の歴史の終焉を、どう解釈しているのだろうか。

千年王国論は、教会の分裂の原因であるかも知れないが、見方を変えれば、あるいは一致を進めるかも知れない。

|

« 先祖供養 | トップページ | オウム真理教 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 先祖供養 | トップページ | オウム真理教 »