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2010年4月27日 (火)

三浦綾子さんは新潮文庫『生かされてある日々』の中(127頁)で、こう言っている。

「聖書のペテロ第二の手紙には、ノアの時代は水で世界が滅んだが、今度は火で滅ぶと預言されている。その火こそ、核による火ではあるまいか」

「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」(ペテロ第二の手紙3章7節)というのが聖書個所であろう。

思えば、日本は、この核による滅亡を二回も経験した。広島と長崎において。それは何を意味するのだろうか。終わりの日の前触れなのだろうか。

ここにも預言解釈の課題がある。

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多重人格

遠藤周作は多重人格者に理解があった。内村鑑三を多重人格者ということはできないが、真理の多面性については理解があったと思う。晩年、後継者と考えられていた塚本虎二は、真理の多面性ではなく、一面性の強調の中で、教会との対立・対決へと進む意識が大きくなっていった。岩下壮一との紙上論争も、その一つの表れであったのではないだろうか。そこに、内村は違和感を覚えたのではないだろうか。

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2010年4月26日 (月)

遺言のこと

最高裁長官も務めた故藤林益三さんが、毎年元旦に遺言を書き改めているという話を本で読んだことがあった。死の準備として、よい習慣と思うけれど、私は、少し別の習慣を提唱したい。

元旦に遺書を書くのは、まだ死が未来のいつかを明確には意識してはいないのだと思う。しかし、いつ来るか分からない死の時、それを未来のどこかに設定すれば、そこから現在の生き方が有意義なものに転換されていくのではないだろうか。

内村鑑三の本に「一日一生」というのがある。一日が一生であれば、明日は死ぬ日である。しかし、それでは、余りにも短か過ぎる。一年では、どうであろうか。来年の元日に書く遺書を、今年は書きつづけるわけである。老年は、そんなふうにして生きていきたい。

しかし、若い人には、これは無理であろうし、試行錯誤の生き方でもいいのかも知れない。老病は誰にでもやってくる。早いか遅いかの違いだけだ。老病は、人の生き方に影響を与える。それは不幸ばかりではないと思う。

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2010年4月19日 (月)

未来か将来か

信仰は未来ではなく、将来に関わる。未だ来たらず、ではなく、将(まさ)に来たらんとす、の意味で。 しかし、過去・現在・未来とは言うが、過去・現在・将来とは言わない。時間の流れの表記は、普通は未来でもいいのだろう。未来に何かが加わり、将来になるのだろう。それが信仰であるかも知れない。波多野精一が、その名著の中で、未来と将来との違いを書いていたような気がする。
未来を将来に転換し、その対象が日々、到来している実感、そこに再臨信仰の真髄があるのかも知れない。確実な未来の出来事に投企する幸い、それが信仰の最終段階なのだと思う。

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2010年4月12日 (月)

教会の二重性

教会の二重性とは、その目的と手段が、そのうちに含まれているということ。これを混同してはいけないし、見誤ってはいけない。

教会の目的とは、キリストの再臨後にも継続していく。しかし、その手段は再臨で終わる。

だから、内村鑑三は、無教会の目的は再臨後に実現すると言ったのだろう。その意味では、無教会とは、再臨に秩序づけられた終末論的運動とも言える。そして、教会の二重性への混同を監視をしているのだろう。

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2010年4月 8日 (木)

新党の名前

「たちあがれ日本」という名前の新党が生まれる。この党名が一般国民に受け入れられるかどうか。あるいは、誤解されるかも知れない。日本に命令している、と。新党は日本に命令できるような立場にいるのか、と。
何か、連呼、シュプレヒコールのようでもある。
かつて、日本キリスト党という新党が生まれそうになったことがある。キリスト連呼で、日本浄化を狙ったが、票が集まらなかった。

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実存論的神学

実存論的神学には、いくらかの関心がある。聖霊の内在と、再臨信仰における超越の契機、この両方を含んでいれば、キリスト教信仰の基本構造はクリアしていると思う。この神学が、この条件を満たしているかどうかは、分からないが。
真の信仰は、自分勝手な解釈を退けるといっても、解釈のない信仰は盲目ではないかと思う。非神話化が正しい解釈かどうかは分からないが、解釈がなければ意味がないという解釈だけは正しいと思う。
教派の数だけ、聖書解釈があるのかも知れないが、その中で、対話と宣言の二つの道を通って、未来を展望したい。トマス・アクィナスは、宣言だけの人ではなく、異論との対話に心を用いた人であった。そんな人が、教派乱立の今日、なお求められているのかも知れない。

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中国での日本人処刑

中国で、麻薬密輸を理由に日本人が処刑された。気の重いニュースである。日本人の感覚では刑が重いかも知れない。知れないではなく、「だろう」と思う。
ふと、西洋の中世社会を思った。そこでは、思想関係で、多くの人々が命を落とした。思想の自由が当たり前の現代人には理不尽に思えるとしても、中世の処刑者らには、異端思想は、現代中国における麻薬のようなものであったのかも知れない。
社会は理想なしには成長しない。理想の代わりにビジョンといってもいい。現代中国にも、西洋中世社会にも、ビジョンがあったし、あると思う。日本には、理想を求める時、排除でない、別の方法がいいと思う。しかし、対話、共存意識が強すぎて、逆に明確なビジョンが出せないのが、今の日本なのかも知れない。包括は超越の契機である。包括しつつ、超越しつつ、そんな道がいいかも知れない。

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2010年4月 4日 (日)

千年王国の終焉

千年王国の終焉が、あるいは、あの16世紀ではなかったのだろうか。宗教改革とルネサンスが、中世の崩壊を進めた。その中で、「歴史的」千年王国も終焉した。しかし、その原理は、なくならなかった。その原理の中で、新しい千年王国の探求が始まったが、そこに、あるいは協同組合運動の根本理念も重なっているのではないだろうか。

新しき中世は、歴史的中世の再興を目指しているのではない。その千年王国的原理の中で、まさに、新しい世界を求めている。そこにキリストの再臨がある。

再臨の後に千年王国があるとすれば、その再臨はまだ終末ではない。しかし、千年王国が終焉したとすれば、その時点で祈り求めている再臨とは、まさに最後の時を指している。

千年王国前再臨説の中での、再臨希求は、その意味では、なお、徹底的終末観に立っていないといわざるを得ないのではないだろうか。そこでは、真の終末は、なお、長い時(「千年」)を経たあとの事柄であるように思えるのである。

形而上学的中世原理とは世界観の問題であり、歴史観の問題でもある。世界観とは、統合原理のことであり、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」も、その核心を捉えようとしているように思える。プロテスタントとカトリックとの対立というものは、その本当の意味は何であったのだろうか。絶対対立ではなく、何かが、その対立から、飛び立っていくのが、その目的であったのではないだろうか。

歴史観とは、現代の見方の検証を意味している。近世、近代、現代と続く歴史の中で、その関係を見定めていく時、歴史的意識が形成されていく。かつて、「近代の超克」という座談会があり、今も注目されている。一人の論客、吉満義彦も、参加している。しかし、彼の議論の展開のためには、なお、共鳴者が少なかったと思う。そこで、彼が指摘したこと、近代の問題性は、内村鑑三の指摘していたでもあろう。そんな近代を超えるもの、それは、歴史的中世回帰ではなく、新しき中世への創造である。そこに、キリストの再臨がある。千年王国は、その歴史観では、既に終わっているのだから。

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2010年4月 2日 (金)

統一教会のこと

世界基督教統一神霊協会(統一教会)のことを、最近、少し考えている。その信仰は、少し先走り過ぎたのではないかと、私は思う。「再臨」のキーワードで、検索すると、そこには、統一教会の「教え」が出ている。再臨に関連した、同教会の「教え」である。

普通のキリスト教は、その見解までは踏み込まないのだと思う。その直前でとどまっていると思う。その直前の信仰で、初めて、全教会への「メッセージ」が生まれ、教会もまた、耳を傾けざるを得ないことになるのだろう。内村鑑三たちの再臨運動は、そこにとどまっていたと思う。

再臨は、全キリスト教会の信仰個条であり、それを否定する教会はない。だから、その問題は、全教会の問題である。それが問題となっていないのは、教会が眠っているからである。その眠りを覚まそうとした、その点に関しては、統一教会を評価することができようが、その再臨信仰は少し、先に行き過ぎたように思う。要するに、教会の終焉を宣言していて、教会からの支持を受けようとしていたのである。終焉はあってもいいが、そこには、完成、自己実現といった要素が必要である。それは聖霊の証しによるのであろう。しかし、統一教会には、それが感じられなかった。だから、教会からの拒絶反応にあったのではないだろうか。

内村の場合も、当時からその再臨信仰への拒否反応があった。しかし、再臨運動は今でも意味を失っていない。失っていないどころか、そのことを通して、内村は、近代日本のキリスト者群像の中では、誰よりも重要な人物として覚えられることになったのではないだろうか。なぜなら、再臨は必ずある、未来に必ず実現する、その信仰は、教会の中でなくならない。そして、教会の歴史が続く限り、その信仰は、教会の希望の中心にあり続けるだろう。そこに、内村の名前が刻まれているのである。だから、内村の名前は、誰よりも長く、いや教会が歴史の中を歩み続ける間、ずっと覚えられることになるのである。そう思いつつ、近代日本の最も重要なキリスト者は内村鑑三という名前であったと、私は改めて痛感している。

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数独雑感

自宅近くの100円ショップで、数独問題集に出合ってから、数独に毎日、取り組んでいる。最初は分からないケースが多かったが、今では、だいたい、分かるようになった。しかし、それでも、最初から正解に導かれるのではなく、行き詰ることもある。そんな時、どうしたらいいのだろうか。

だいたい、リセットせよ、と教えられている。最初から、やり直しである。しかし、この時、問題を全部、もとに戻す必要はないと思う。解答と見比べて、正解しているところは、数字をペンで書き込んで、新しい問題として、再度、取り組めば、その方がいいと思う。こんなことを、何度か続けていけば、正解にたどり着くであろう。そうでないと、その問題に対しては、行き詰まりが、なかなか解消しないであろう。それは、精神衛生上でも、よいことではない。

困難な問題、課題を解決した、そんな達成感は、数独に取り組む者への、ご褒美であろう。

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