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2010年5月31日 (月)

希望

Histy通信の5月31日号に、ルターの名言が載っていました。

「いくら知恵があっても、
これを使う勇気がなければ何の役にも立たないように、
いくら信仰が厚くても、希望がなければ何の価値もない。
希望はいつまでも人とともにあって、
悪と不幸を克服するからである。」

ルターというと、信仰義認で覚えられる人で、信仰重視を教えてくれている人です。そのルターが、希望の重要性を指摘しているというので、興味を持ちました。

「いくら信仰が厚くても、希望がなければ何の価値もない」という部分は、新鮮に感じました。

その希望は何か。私の言葉では、主の再臨です。ルターが、その希望の内容をどう考えていたかは知りません。あるいは、文脈から推測すれば、キリストという意味であったかも知れません。それは永遠の先取りという意味で、間違いではないでしょうが、永遠が、まもなく、決定的な意味で、この歴史に参入するという意味で、再臨には、また別の意味が付加されていると思います。

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iPadの発売

iPadが日本で発売されて、何がどう変わるのでしょうか。『電子書籍の衝撃』(佐々木俊尚著、携書)という本があります。新書版で、本体1100円と高めの値段ですが、一読の価値あります。誰でも出版できる日が来ているようです。その方法が書かれています。

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5月末決着

5月末決着というのは、民主党と社民党との蜜月の終わりを意味するのだった。最初は大事な部分(基地問題、安保へのスタンス)では共有していた。しかし、鳩山首相は変わった。福島党首は変わらなかった。変わったという過程が大切である。

この決着で、民の声は首相への批判が強まったかも知れないが、天の声は支持したのかも知れない。渡部黄門さんは、民の声を聞いたかも知れないが、それが即天の声であるかどうかは疑問がある。

要するに、日米同盟をどうするのか、という問題で、現状維持であれば、鳩山首相は当初の立場を変えざるを得なかったということである。

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2010年5月30日 (日)

自殺について

自分の死について考えることはよいことである。なぜなら、人はみな、やがて死ぬからである。心の準備なくして死を迎えることの不幸を、ある人たちは知っている。それは最後の審判を思うからであり、残された人たちにトラブルを残すのであれば、心残りであろうからである。

さて、人はやがて死ぬ。どんな状況が、そこにあるのだろうか。病気、事故、自殺、死刑、そんなところであろうか。一番可能性の高いのは病気であろう。これから逃れることのできる人はいないからである。最近は自殺も大きな社会問題になっている。

私は自殺で人生を閉じることになるのだろうか。未来のことは分からないが、自殺というのは、生きている意味を喪失した時に選択されるものではないだろうか。しかし、信仰者にとって、生きる意味の喪失は、果たしてありうるのだろうか。

吉満義彦のドイツ語の詩が知られている。「私はもう思索することができない。ただ祈るのみである」、冒頭、そんな意味の詩がある。

思想家として立っていた吉満にとって、思索ができないということは、生きる意味、理由を失うほどの重大な問題ではなかったか。それはまた、もう死期が間近という時を指していることかも知れない。しかし、そこでも自殺は選択されてはいない。「ただ祈るのみ」という。祈りという勤めが残されているからである。

体の自由がなくなっても、祈る自由は残されている。死の直前においても、人には祈る自由だけは残されている。最後は、祈りのみになるのであろう。そして、祈りは「労働」であり、「義務」でもある。

では、何を祈るのか。私は、再臨を祈る。再臨は新生のためではない、聖化の完成のためである。そして、人類史とは聖化の過程にあるからである。人類史を、その終末にまで導く力、それが再臨待望の祈りではないだろうか。

たとえ、人間的には死んだも同然に見えていても、再臨待望の祈りは、神の目には最も能動的な人間の活動と見えるかも知れない、と思う。

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2010年5月24日 (月)

ペンテコステ

昨日はキリスト教会では、ペンテコステの祝日でした。教会の説教では、「今日が教会の誕生日」という話がありました。聖霊降臨の時に、この地上に教会が誕生したという意味です。意義深い日です。

しかし、余り知られていません。クリスマス、イースターは知られていても、ペンテコステは一般には知らない人が多いと思います。

ペンテコステに始まる旅が、やがて再臨で終わる。その途上に、われわれはいます。旅の始まりと、旅の終わりを常に考えるのでなければ、旅人は旅を続けることができないでしょう。それにしても、再臨が教会で語られることは、めったにないことですが、……。

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大平元首相生誕100年

Rimg0137_2 今年は大平正芳・元首相の生誕100年、没後30年の年。女婿で、秘書官だった森田一氏が『心の一燈--回想の大平正芳 その人と外交』(第一法規)を書いた。大平はキリスト者でもあった。(写真は大平元首相の墓)

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2010年5月20日 (木)

念仏と題目

仏教で、信仰の核心をつく言葉に、よく知られた「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」がある。

念仏は、阿弥陀仏に帰依するという意味で、よく分かる。キリスト教の信仰では、イエス・キリストに帰依するという信仰の中心的な事柄を考えれば、それに対応するものとして納得できるものを感じる。

それに対して、題目は、法華経に帰依するという意味であろう。キリスト教的に言えば、「ガラテヤ書に帰依する」といった意味であろうか。念仏とはすこし別の精神を感じるのである。

両者の相違に目をとめれば、念仏の方に親近感を感じるのである。しかし、この両者は対立的にのみ存在しているのだろうか。いや、そうではないかも知れない。

あの日蓮の、念仏・禅・真言・律を批判した四箇格言といった、これもよく知られた言葉も、そのままストレートに受け止めたら、日蓮の評価を下げることになるかもしれない。禅も念仏も、現在の影響は看過できないからである。

法華経に帰依するという立場は、正統信仰論の中で浮かび上がる立場であろう。キリスト教の歴史の中でも、教会が誕生し、その後、異端論争があった。信仰の本質が、そこで問われた。そんな関心の中で、正統信仰を問い、その解決を提示する試みが続いた。

そんなことを背景にして考えれば、両者を対立的にではなく、包摂的に捉えることができるかも知れない。今は、そんな解釈がよいと思っている。

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内村鑑三語録

ツイッターで内村鑑三語録を発信している人がいます。「Kanzo Uchimura」さんです。フォローしました。内村の影響は、「一日一生」や、語録、日録といったように、後世に大きな影響を残していると思います。

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2010年5月18日 (火)

酒井勝軍

『歴史読本』(新人物往来社)6月号に酒井勝軍(かつとき)の連載があります。24回も続いています。タイトルは「神々の狂宴 -酒井勝軍と酩酊の日本近代史-」です。

以前、この連載にざっと目を通したことがありましたが、その時は余り関心が起きませんでした。しかし、6月号には、内村の再臨運動など、よく知られた人たちが登場していて、俄然、興味を覚えました。

酒井は「キリスト者」として紹介されています。自分でも、信仰者としての生き方をしていたのでしょう。しかし、今、彼の名前は一般のキリスト教会の中で、どれくらい知られているのでしょうか。彼の広い交友関係の中で、よく知られた人たちが連載の中では登場しています。今、酒井をどう評価するのか、誰かが取り組んでほしいと思いました。

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2010年5月14日 (金)

ケーベルを紹介

『歴史読本』(新人物往来社)6月号が、ケーベルの紹介をしています。
「明治日本 お雇い外国人と弟子たち⑥ケーベル」(片野勧)です。

また、「異端の人物史」の中では、酒井勝軍が取り上げられていますが、その中に、内村鑑三たちの再臨運動も取り上げられています。こちらは、連載24回目ということで、以前のものを読んでみようと思います。酒井勝軍は名前は知っていますが、余り資料は出ていないと思います。ただ、中田重治は、よく知られています。日ユ同祖論がからんでいたとの指摘ですが、このあたりは、今も一部に残っている議論かも知れません。ただ、この記事の中では、ユ日同祖先論となっています。最近は、日ユではなく、ユ日と言うのでしょうか。

ちょっと気になったことを記します。
ケーベル記事本文の1頁目に、写真がありますが、これはケーベルの墓ではありません。説明には「弟子である夏目漱石らとともに墓がある雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)」とありますが、夏目漱石の墓の写真でもありません。ケーベルの墓の写真を掲載してもいいのではないでしょうか。

また、291頁に、「柿崎正治」とあるのは「姉崎正治」の間違いではないかと思います。

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2010年5月10日 (月)

往相と還相

浄土真宗の教えでは、悪人正機が有名であるけれど、それ以外にも、往相、還相の教えもある。

悪人正機は、往相に対応するのであろうか。そして、次に還相の段階を迎える。その時、自然にまかせることにより、教えが広がっていくのである。

キリスト教では、イエスの復活を軸にして、昇天と再臨がある。それを、対象的に考察するのではなく、実存的に捉えようとする時、浄土真宗の「往相、還相」に類似しているようにも思える。

一時、米国で、終末論を物語風に紹介した本がよく読まれた。そこでは、合理的思考の人たちは、荒唐無稽に感じたかも知れない。しかし、実存的に理解しようとすれば、そこにも意味が現れてくる。そして、今を生きる基本的な信仰態度を確定することが出来る。

実存意識は、新生前夜の風景のようにも思える。しかし、そのあとにも、なお実存意識を堅持しようとするのであれば、そこには、再臨前夜の意識が求められるのではないだろうか。

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2010年5月 4日 (火)

信時潔

作曲家・信時潔は開成学園の卒業生ではありませんが、その校歌の作曲者でした。

開成中学に入学した時、私たちは、音楽の時間に、まず開成の校歌を教えてもらいました。その時、初めて、その校歌の作曲者が信時潔(のぶとき・きよし)であることを知りました。
                        
しかし、それ以前にも、新入生たちは、日本の戦争映画でよく歌われた「海ゆかば」の曲は知っているでしょうし 、その作曲者が信時潔という名であることも、あるいは知っていたかも知れません。であれば、その最初の音楽の時間に、「そうか、開成の校歌の作曲者と、『海ゆかば』の作曲者とは同一人物だったのか」との思いが、心の片隅に残ることになるのでしょう。
                    
この校歌制定については、『開成詞華選 若き心 昭和編』の23頁に書かれています。それによると、昭和10年6月に開成教諭の古関吉雄氏が作詞、同7月、平戸龍也先生のご尽力で、東京音楽学校教授、信時潔氏に作曲を依頼、同8月に完成、同9月2日、2学期の始業式当日、片山正夫校長が、講堂で全生徒に発表したというのです。それは、「高雅にして清爽なる曲節」である、と言っています。

信時潔は開成校歌の作曲者なので、開成とは関わりのある人物ですが、キリスト者としても濃密な関わりのある人物です。

『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)には、「信時潔」の項目があります。そこには、「幼児から賛美歌に親しみ」とだけ書かれ、キリスト教の信徒であるかどうかは明記されていません。

しかし、同書の「大阪北教会」の項目では、「また若き日にこの教会で信仰を養った著名人に信時潔(吉岡弘毅三男)、北村徳太郎がいる」と書かれているので、若き日に洗礼を受けておられたのでしょう。

この大阪北教会は現在の日本キリスト教会大阪北教会です。『日本基督教会大阪北教会百年誌』が出ています。

吉岡弘毅は1875年(明治8)、築地の東京公会で、タムソンから洗礼を受けて、本郷教会の創立に尽くし、長老になりました。その後、大阪北、高知、京都室町、伊賀上野の諸教会で牧師として過ごしました。吉岡家の養子になった吉岡繁氏(元神戸改革派神学校校長)によれば、吉岡弘毅は「名誉、栄達を望まず、無欲、自由な信仰者」であったと言います。

さて、信時潔がキリスト者であったという記述は吉岡繁著『実践的伝道論研究』(新教出版社)にあり、それには、信時潔の父は吉岡弘毅牧師で、「--三男潔(大阪北教会の長老であった信時家に養子に入った作曲家)へとその信仰は継承されましたが、--」(15頁)とあります。

信時潔は、吉岡弘毅の三男として生まれ、大阪北教会の長老であった信時家の養子になった人です。

『日本基督教会大阪北教会百年誌』には、同教会の信時義政長老の名が多年にわたり記載されています。信時義政は1888年(明治21)年に執事に選出され、1891年には長老となり、以後、1909年(明治42)まで19年間も連続して長老でした。その多くは吉岡牧師の時代でしたので、吉岡牧師の信任厚かったのだと思います。

信時潔が吉岡弘毅の子であったというのは、非常に興味深いことですが、残念なことに、信時潔の信仰がどんなものであったかについては、余り記録が残っていません。

『キリスト新聞』1972年1月29日から5月6日まで、鈴木伝助が「戦える清教徒」という題で、吉岡弘毅の伝記を連載しています。その9回目(4月1日)で、著者は大阪北教会の信徒の横顔をこう書いています。

「伊東、宇賀、信時という長老さんたちの温顔、奥田夫人、信時夫人などのいつもニコニコした年輩の婦人会のおばさんたちの顔が、60余年後の今日でも私の目の前に浮かんでくる」

また、12回目(4月22日)には、信時潔を含む吉岡の家族の写真もあり、こう書かれています。

「吉岡は妻とりとの間に、三男三女を恵まれていた。…三男潔(きよし)は信時(のぶとき)家の養嗣子となり、東京音楽学校を卒業して、ドイツに留学した後、母校の教授に就任して、名作曲家として多くの作品を残した。中でも戦時中、国民のすべてに歌われた『海ゆかば、みずく屍(かばね)、山ゆかば、草むす屍、大君の辺(へ)にこそ死なめ、かえりみはせじ』の作曲は傑作の一つといえよう」と書いています。

日本歌曲「海ゆかば」(大伴家持・作詞)は1937年(昭和12)10月13日から行われた「国民精神総動員強調週間」の際、日本放送協会の委嘱により、当時、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)講師であった信時潔(50歳)が作曲したもので、翌年、同協会から合唱曲として放送されました。

この曲が生まれた経緯は、團伊玖磨が文春文庫『好きな歌・嫌いな歌』で、「信時先生に直接伺ったところによると」として、こう紹介しています。

「だんだんに戦時色が放送にも反映し始めた頃―昭和13年は日華事変勃発後1年目である-総理大臣や、重臣のような人達が放送で講演するような場合、その開始に先立って演奏するテーマのような音楽があった方が良いと言う事になって、この曲はその目的のために作られた」

歌詞は「万葉集」巻18の犬伴家持の長歌の一節から取られたものです。『日本大百科全書』(小学館)には、こんな説明があります。

「(歌詞は)天平21年(749)4月1日、陸奥国で金が初めて国内から産出したことを賀した詔が出され、そのなかで、大伴氏が先祖代々『海行かば』を家訓として忠誠に励んだことに触れてあったのに対し、家持が感激してつくったものである。

 荘重な調べの歌曲は、昭和初期の軽薄な世相を正し、非常時態勢下の国民の自覚を高める意図があったが、太平洋戦争末期には玉砕や戦死者のニュースのテーマ音楽に使われ、弔歌の色合いを濃くしていった」

團は、「海ゆかば」に関して、こう言っています。

「『海ゆかば』は、その雄渾でナイーヴな旋律と、荘重な和声が人の心を動かし、戦争中には、『君が代』に次ぐ準国歌としての役割を果たした。どれだけ多くの場所で、どれだけ多くの人にこの歌は歌われただろうか。

 信時先生は、その性まことに明治の日本人であった。漢詩や短歌を愛好される東洋的な性格と、ドイツで習得された西洋音楽の伝統への傾倒が、仲々一つになれずに、そしてたまさか一つになり得た時に名作が生まれたのだと言える」

 彼は、またこうも言っています。

「信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘らず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向にも稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である。先生は、若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者だったのである。『海道東征』も『海ゆかば』も、軍国主義に同調して書かれたものでは無く、日本人としての先生にとっては、真剣に、自然に生まれた作品だったと言える」

「(『海ゆかば』は)作った先生にとっての『海ゆかば』と、世間の『海ゆかば』の受け入れ方、使い方の間に、どうにも仕方の無いギャップがあったように思われてならない。然し、そうした事が戦争なのだと思われなくも無いのである」

今、「海ゆかば」はCDなどでは、「軍歌」の中に収められていますが、「(信時先生は)軍歌を一つも書かれなかった。若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者であった」という團伊玖磨の指摘は覚えられてよいのではないかと思います。

信時潔の資料は多く残ってはいません。

『日本の作曲家』(富樫康著、音楽之友社、1956年)の信時潔の項目には、「明治43年、上野卒業、大正9年ドイツに留学、ゲオルク・シューマンの教えをうけて帰った信時潔は、山田耕筰と並んで日本の作曲界の礎石となり、上野に長く教鞭をとってその道における有為な人材を養成した。しかし信時の活動はきわめて地味だったので、山田の一人舞台が相当長く続いた」(14頁)とだけ書かれています。

ちなみに、山田耕筰は母の影響で、幼児から讃美歌に親しみ、14歳の時に洗礼を受けています。婦人運動家のガントレット恒は姉で、キリスト教的な家庭で育ったようです。今は歌われていない同志社大学歌の作曲者でもあり、その作詞者は北原白秋です。

さて、B5判の小冊子『信時潔・橋本国彦』(土肥みゆき著)には、信時の略歴と年表などがあります。その中に、こんな紹介があります。

「日本楽壇の大御所であった山田耕筰氏の華麗さに対して、信時氏は、母校(現在東京芸術大学音楽学部)の作曲科教授として後進を育成される一方、古典を尊重する保守的作曲家で、作品は殆ど『歌曲』『合唱曲』内攻的で質朴・しかも格調高い作品、日本人の血に根ざした単純な形の中に最高の芸術表現の究極を求めた作曲家として知られています」

「氏の父吉岡弘毅氏は色々な経歴の持主で、元佐幕派の藩士、漢文を学び後に公卿の家臣に転じ、明治維新後外務省に入り明治3年国交を求める正使として朝鮮に赴き彼の地で漢訳聖書に心打たれ、生涯をキリスト教布教にと転じた過激性を持った人物であります」

信時潔は18歳の時、東京音楽学校予科に入学、10年7ヵ月も同校の学生でした。その間、21歳の時には、突然、退学届を出して救世軍兵士となったようですが、植村正久牧師に相談して復学したそうです。

子供たちの名は、長男が太郎、次男が次郎(日本画家)、三男が三郎、そして長女がはるでした。いかにも日本的な命名と思います。

1965五年(昭和40)、逝去、78歳でした。

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