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2010年5月30日 (日)

自殺について

自分の死について考えることはよいことである。なぜなら、人はみな、やがて死ぬからである。心の準備なくして死を迎えることの不幸を、ある人たちは知っている。それは最後の審判を思うからであり、残された人たちにトラブルを残すのであれば、心残りであろうからである。

さて、人はやがて死ぬ。どんな状況が、そこにあるのだろうか。病気、事故、自殺、死刑、そんなところであろうか。一番可能性の高いのは病気であろう。これから逃れることのできる人はいないからである。最近は自殺も大きな社会問題になっている。

私は自殺で人生を閉じることになるのだろうか。未来のことは分からないが、自殺というのは、生きている意味を喪失した時に選択されるものではないだろうか。しかし、信仰者にとって、生きる意味の喪失は、果たしてありうるのだろうか。

吉満義彦のドイツ語の詩が知られている。「私はもう思索することができない。ただ祈るのみである」、冒頭、そんな意味の詩がある。

思想家として立っていた吉満にとって、思索ができないということは、生きる意味、理由を失うほどの重大な問題ではなかったか。それはまた、もう死期が間近という時を指していることかも知れない。しかし、そこでも自殺は選択されてはいない。「ただ祈るのみ」という。祈りという勤めが残されているからである。

体の自由がなくなっても、祈る自由は残されている。死の直前においても、人には祈る自由だけは残されている。最後は、祈りのみになるのであろう。そして、祈りは「労働」であり、「義務」でもある。

では、何を祈るのか。私は、再臨を祈る。再臨は新生のためではない、聖化の完成のためである。そして、人類史とは聖化の過程にあるからである。人類史を、その終末にまで導く力、それが再臨待望の祈りではないだろうか。

たとえ、人間的には死んだも同然に見えていても、再臨待望の祈りは、神の目には最も能動的な人間の活動と見えるかも知れない、と思う。

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