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2010年6月25日 (金)

他人の空似

お互いは赤の他人なのですが、どこか似ているように思います。幕末の会津藩の殿様だった松平容保と、ケーベル先生のお弟子さんだった岩下壮一神父のお二人です。

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2010年6月22日 (火)

山田助次郎牧師のこと

山田助次郎(1868~1937)という人物を、『日本人の終末観 日本キリスト教人物史研究』(野村耕三著、新教出版社)で、初めて知った。

彼は明治元年の生まれで、昭和12年亡くなった。彼は聖公会の初期の信者で、聖アンデレ教会の牧師になった。

彼が再臨信仰について語っている。

「再臨は栄光の主のあらわれると共に永遠の生命に入ることであり、全世界に一度に臨む大事件であり、全人類的であり、この信仰こそ真の信者の生活を完成する力であります」

「この信仰こそ真の信者の生活を完成する力であります」と彼は言う。この点に注目すれば、ないがしろに出来ないことがわかる。

次に、こうも語る。

「再臨の信仰には一つの事ではなく、総ての事が含まれています」

例えば、教会一致運動があっても、それは最終的に、どんな状況を想定しているのだろうか。「見える教会の一致」として、それを思うと、プロテスタントには「カトリック教会への吸収か」といった警戒観が生まれるだろう。その時、再臨信仰があれば、その下で、一致が生まれるのではないだろうか。再臨信仰なしに、教会一致運動は挫折せざるを得ないように思えるのである。

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2010年6月21日 (月)

天皇かキリストか

戦時中の昭和17年、「天皇とキリストと、どちらが偉いのか」と、そんな問いが、ホーリネスの牧師たちに向けられた。もちろん、キリストと答えた。その結果、教職41人が4年から1年の懲役形を受けた。1人は獄中で病死した。そんな事件があった。その問いのキリストは「再臨のキリスト」の意味という話も聞いた。

天皇の価値に挑戦するものとして、再臨信仰が誤解され、警戒されたのかも知れない。しかし、現存する価値と、その無限超越を意味する価値とは違うのではないだろうか。両者は比較できるのだろうか。

さて、酒井勝軍(かつとき)は、そんな場面では、どう答えただろうか。

酒井勝軍の信仰については、『歴史読本』6月号の「神々の狂宴  酒井勝軍と酩酊の日本近代史」のタイトルで、久米晶文氏が詳しく書いている。それによると、ハルマゲドン(世界最終戦争)は大正3年(1914)に始まり、昭和15年(1940)に終わったという。その勝利者は、同じ先祖をもつ日本とユダヤであり、その過程で千年王国的理想世界が生まれ、その世界を統治するのが、再臨のイエスの託身としての日本天皇である、という。

酒井勝軍の名は日ユ同祖論では出てくるが、キリスト教の歴史では、ほとんど無視されている。しかし、その説に、どういう真面目な批判があるのか、それを聞いてみたい気もする。

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2010年6月18日 (金)

回心について

最近、カトリック教会でも説教の中で、回心が語られている。しかし、それは漸進的回心のことであるように思われる。

回心には、瞬間的回心と漸進的回心とがあるように思われるのである。従って、回心は瞬間的か漸進的か、と言われれば、両方と言おう。回心が新生であれば瞬間的、聖化であれば漸進的であるからだ。

幼児洗礼が新生であるとすれば、あとは聖化のみである。だから、その中での回心は聖化を意味すると思われる。そのため、絶対他力、信仰義認の教理は、カトリック教会では隠されていたように思われる。それがルター出現の背景ではなかったのだろうか。

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2010年6月11日 (金)

ヘーゲルの本質

ヘーゲルという難解な思想家の本質論は、さぞかし難解なものになるだろうと思うかも知れないが、ここで、そんな解説をするつもりはない。ごく簡単なことを、ベルジャーエフは指摘している。しかし、このような指摘は、他の誰もがしているかといえば、私はそれを知らない。

ヘーゲルは哲学者として知られている。神学者としては知られていない。しかし、神学者としての一面を抜きにして、ヘーゲルは理解されないというのである。

ベルジャーエフは、白水社の著作集6「神と人間との実存弁証法 霊の国とカイザルの国」の中で、こういっている。

「一見したところルッターとヘーゲルの対立ほど大きな対立はない。ルッターは理性を悪魔的な能力として呪ったのに反して、ヘーゲルは理性を神化した」

「けれどもルッターが語っている理性は、ヘーゲルが肯定した理性と同じものではなかった。ルッターが断罪した理性は人間的な理性であるに反して、19世紀初頭のヘーゲル、フィヒテ、およびすべての理想主義者が栄光を与えた理性は神的理性である。ヘーゲルが眼前にいだいていた理性は--そしてこれがここでわれらが最も大いなる関心をもつ点であるが--ルッターが理解していた理性と符合しないで、ルッターが恩恵のもとで理解したものに符合する。ヘーゲルによれば、認識をなすのは人間的な理性ではなく、神的な理性である。なんとなれば認識の作用は宗教的な作用であって、個々人の作用ではなく、普遍的な精神の作用である。同様にフィヒテにおける自我は、個人的な人間的な自我ではなく、普遍的にして神的な自我である」

要するに、ルターは、新生、義認を問題にしたのであるが、ヘーゲルは、その先を進んでいるのだという指摘である。キェルケゴールのヘーゲル批判は、新生の再確認であったのだろう。それが実存主義の原点であるという点においては異論はない。しかし、ヘーゲルは、それを踏まえて、その先に進んでいるという指摘である。要するに、聖化の中で哲学していたという理解である。

ヘーゲルを理解するには、神的理性の理解が前提である。しかし、信仰抜きの理性がすべてであるという哲学者にとって、「神的」は不可解かも知れない。そこでヘーゲル理解が難解となるのではないだろうか。

ヘーゲルの解説書の中で、このような指摘は、どこかにあるのだろうか。ベルジャーエフの、ある意味で分かりやすい解説の中に、奥深いテーマが潜んでいるのである。

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2010年6月10日 (木)

生と死

悲しみの 日々を送りて 死は望み
 悲しみ終わる 喜びの日ぞ

自殺者の 悲劇対応 如何ならん
 死の意味を問え 避けることなく

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2010年6月 8日 (火)

進化論

「われわれの精神のうちには自己を有機的に組織しようとする限りない努力があるから、外界のうちにも有機化へ向かう一般的な傾向が現れずにはいない。したがって全宇宙は、一つの中心から出発して自己を形成し、低い段階から次第により高い段階へと上昇して行く一種の有機的組織である」(『西洋哲学史 下巻』シュベーグラー著)

進化論は、今では、カトリック教会も認めつつある。しかし、根本主義的キリスト教では、聖書解釈の中で、これまで認めていないと思う。米国での議論は盛んであるが、日本では、論点の共有が生まれていないのかも知れない。

進化論は、無神論的な立場で、神なしに宇宙の目的があるとして解釈されてきた。それが問題なのではないのだろうか。信仰の中でも、人類の、また宇宙の進化を考える余地はあるのではないだろうか。

歴史というものは、目的を見いだした人の「勝ち」ではないだろうか。その目的を、どのように考えるのか、人生の意味は、そこにあるのかも知れない。進化は、そのような宇宙の目的に関係しているので、信仰の問題ともなりうるのではないだろうか。

信仰は、人生に静的な安定感を与えるものとばかり考えるのは、どうだろうか。動的な、歴史形成的な要素が、そこにあると見れば、進化論的なものをも受容できるのではないだろうか。

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超人

大学生の時、ベルジャーエフを読んだ。その影響は、今も残っている。そして、それを感謝している。

彼の著書『現代の終末』に、こんな個所がある。

「人間の個人性は、超個人や超人ともみられるものの実在や価値を認め、且つそれらに自らを服従させる限り、強靭であり、実り豊かなものであるというのが一般の法則である」

超人というとニーチェを思い出す。そして、彼のキリスト教嫌いから、彼の思想も警戒してしまう。ベルジャーエフの著書の中では、ニーチェを評価する言葉もあり、これは何を意味しているのかと思うこともあった。実存主義の系譜の中で、ニーチェは、やはり重要な人物なのだという指摘なのだろう。そして、彼をキリスト教的に、あるいは終末論的に解釈するとすれば、その意味がもっと明確になるだろう。ニーチェは、既存のキリスト教を解釈した。しかし、逆に終末論的キリスト教がニーチェを解釈したら、ニーチェの本当の意義が現れてくるように思う。それが、ベルジャーエフのニーチェ観の核心的要素なのかも知れない。

超個人や超人は、神と言い換えることができるかも知れない。しかし、歴史を動かすためには、再臨するキリスト、来たりつつある神、そういう姿を、ここで思うべきかも知れない。そして、これがベルジャーエフの意図でもあったと思う。

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2010年6月 6日 (日)

再臨信仰を問う

「内村鑑三研究セミナー」で、内村の再臨信仰が話題に取り上げられます。

同セミナーは「内村鑑三研究会」編集委員会の主催で、6月12日(土)午後2時から5時まで、富坂キリスト教センター1号館で開催。森山徹氏が「再臨信仰と内村鑑三のユダヤ観」、また柴田真希都氏が「内村鑑三の生における<病体験>」と題して発表されます。

会費500円。連絡先は、電話0471・82・3283(渋谷浩)。

参加したいのですが、当日は勤務日のため、出られません。内容は、是非、何かの形で発表されることを望みます。

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2010年6月 3日 (木)

個人の力

キェルケゴールは「現代の批判」の中で、こんなことを言っている。

「ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしててもびくともしない倫理的な態度を自分自身の中に獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうではなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供どうしが結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」

内村鑑三はキェルケゴールについて言及するところがあるけれど、この部分などは、大いに共鳴したのではないだろうか。

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無限包容雑居性

無限包容雑居性と闘うのではなくて、共存するキリスト教。第二バチカンは、そのあり方を否定ではなく、肯定しているように思う。おおざっぱに言うと、そう言えるのではないだろうか。

無限包容雑居性とは日本文化の特性である、という。そして、インドも、そうかも知れない。晩年の遠藤周作は、インドに関心を抱いていた。

しかし、やはり、収斂していく点を見いだす必要があるのではないだろうか。超越していくための条件としての再臨信仰が、そこにあるように思う。

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再臨と伝道

クリスチャン・トゥデイによると、5月29、30日の両日、「再臨待望東京大会」が、キリスト兄弟団目黒教会で開かれ、講師の姫井雅夫氏が、「すべての人に福音が伝えられ、それから終わりの日がくる」という言葉から、宣教活動を励ましたという。

「すべての人に福音が伝えられ、それから終わりの日がくる」という言葉は、本田弘慈氏も語っていた。再臨の前提としての福音宣教という意味で使われたのかも知れない。しかし、この両者の関係、もう少し、吟味してもいいかも知れない。

今の私は、聖化の完成としての再臨を考えている。その意味では、将来の、ある日に、突然、再臨があるというよりも、もっと現在の歩み、生き方の中で、再臨を捉えることができるように思う。聖化は、現在の事柄なのであるから。

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