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2010年6月11日 (金)

ヘーゲルの本質

ヘーゲルという難解な思想家の本質論は、さぞかし難解なものになるだろうと思うかも知れないが、ここで、そんな解説をするつもりはない。ごく簡単なことを、ベルジャーエフは指摘している。しかし、このような指摘は、他の誰もがしているかといえば、私はそれを知らない。

ヘーゲルは哲学者として知られている。神学者としては知られていない。しかし、神学者としての一面を抜きにして、ヘーゲルは理解されないというのである。

ベルジャーエフは、白水社の著作集6「神と人間との実存弁証法 霊の国とカイザルの国」の中で、こういっている。

「一見したところルッターとヘーゲルの対立ほど大きな対立はない。ルッターは理性を悪魔的な能力として呪ったのに反して、ヘーゲルは理性を神化した」

「けれどもルッターが語っている理性は、ヘーゲルが肯定した理性と同じものではなかった。ルッターが断罪した理性は人間的な理性であるに反して、19世紀初頭のヘーゲル、フィヒテ、およびすべての理想主義者が栄光を与えた理性は神的理性である。ヘーゲルが眼前にいだいていた理性は--そしてこれがここでわれらが最も大いなる関心をもつ点であるが--ルッターが理解していた理性と符合しないで、ルッターが恩恵のもとで理解したものに符合する。ヘーゲルによれば、認識をなすのは人間的な理性ではなく、神的な理性である。なんとなれば認識の作用は宗教的な作用であって、個々人の作用ではなく、普遍的な精神の作用である。同様にフィヒテにおける自我は、個人的な人間的な自我ではなく、普遍的にして神的な自我である」

要するに、ルターは、新生、義認を問題にしたのであるが、ヘーゲルは、その先を進んでいるのだという指摘である。キェルケゴールのヘーゲル批判は、新生の再確認であったのだろう。それが実存主義の原点であるという点においては異論はない。しかし、ヘーゲルは、それを踏まえて、その先に進んでいるという指摘である。要するに、聖化の中で哲学していたという理解である。

ヘーゲルを理解するには、神的理性の理解が前提である。しかし、信仰抜きの理性がすべてであるという哲学者にとって、「神的」は不可解かも知れない。そこでヘーゲル理解が難解となるのではないだろうか。

ヘーゲルの解説書の中で、このような指摘は、どこかにあるのだろうか。ベルジャーエフの、ある意味で分かりやすい解説の中に、奥深いテーマが潜んでいるのである。

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