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2010年6月 3日 (木)

再臨と伝道

クリスチャン・トゥデイによると、5月29、30日の両日、「再臨待望東京大会」が、キリスト兄弟団目黒教会で開かれ、講師の姫井雅夫氏が、「すべての人に福音が伝えられ、それから終わりの日がくる」という言葉から、宣教活動を励ましたという。

「すべての人に福音が伝えられ、それから終わりの日がくる」という言葉は、本田弘慈氏も語っていた。再臨の前提としての福音宣教という意味で使われたのかも知れない。しかし、この両者の関係、もう少し、吟味してもいいかも知れない。

今の私は、聖化の完成としての再臨を考えている。その意味では、将来の、ある日に、突然、再臨があるというよりも、もっと現在の歩み、生き方の中で、再臨を捉えることができるように思う。聖化は、現在の事柄なのであるから。

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コメント

「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24・14)

この聖書の個所が、伝道と再臨との関係で引用されたのだろう。

投稿: | 2010年6月18日 (金) 16時38分

終わりの日が来ると、福音宣教も終わる。それは、人の救いの機会がなくなることを意味する。そして、終わりの日が、いつ来るのか分からない。それが福音宣教へ駆り立てる動機になるのだ。そんな理解が込められているのかも知れない。

そうだとすれば、再臨待望は、どう考えるべきか。むしろ、再臨遅延をこそ、望むべきではないのか。

しかし、キリスト者としては、再臨待望を祈るべきであるように思う。なぜなら、それが人類の歴史のゴールなのであり、ゴールを目指して全力で進むべきであるから。それは裁きの時かも知れないが、救いの時でもある。聖霊の満たし、えい満を求めることも大切だが、それらは再臨信仰の結果として与えられるものではないのか。「キリスト者の完全」を求めるのもいいが、再臨待望の姿勢の中で、それは自然に与えられるものに思える。

聖霊降臨の時から、ある意味で終わりの日は始まっている。現在の「終わり」と、再臨の時の「終わり」と、その関係を考えるべきではないのか。

投稿: | 2010年6月20日 (日) 18時03分

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