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2010年7月 4日 (日)

酒井勝軍研究

酒井勝軍(かつとき)の研究が、『歴史読本』に連載されている。筆者は、久米晶文氏。第24回(6月号)に、その信仰の説明がある。

こんな個所がある。

「ユートピア(新世界)を支配する「再臨のイエスの託身としての日本天皇」という表現はいささかわかりにくいかもしれないが、これはエホバ(ヤハウェ)の人間的なあらわれがイエスであり、さらに終末の日に地上に再臨して人々を救いあげるイエスの現実的あらわれが日本天皇であるという主張である。
 論理的には、日本天皇=イエス=エホバ(ヤハウェ)ということになり、日本天皇への信仰はエホバ(ヤハウェ)という唯一神への信仰となんら矛盾しないのである」

こう説明したあと、こう続いている。

「こういう酒井の信仰や思想は、ひろい意味での千年王国運動、もしくは再臨運動といっていいのだが、残念なことにこれを日本の近代キリスト教思想史のなかで捉えようとした研究は皆無である。千年王国運動の変種とも、再臨運動の変種ともみなされることなく、キリスト教を大きく逸脱したまったく別個のものとしてしか認定されないのである」

最初、これは明治憲法体制に信仰から合致する理論かと思った。そうであれば、昭和20年の敗戦によって、このような理論が排除されてしまうのは当然と思われた。

しかし、原爆の投下、敗戦、天皇の言葉、憲法の制定と、それらの過程を見た時、別の解釈もありうるかも知れないと思った。日本の戦前(明治憲法体制下)と戦後(平和憲法下)を比べてみた時、当然のことではあるが、この半世紀以上の間、日本は戦争をしていないのである。そして、将来も、その可能性は低い。その違いは大きいのではないだろうか。

もし、酒井の信仰、思想に解釈をほどこせば、戦前の天皇に再臨のキリストを重ねることは無理であろうが、戦後の天皇、あるいは、その原点である敗戦の時の天皇の言葉の中に、「再臨のキリスト」的なものを見ることは、あるいは可能かも知れない。日本は、その時から、ある意味では平和を享受してきている。そこに千年王国との類比を見ることも可能かも知れない。

もちろん、酒井は、そんなことを言っているのではないであろう。右翼的な思想との親近性があるのかも知れない。しかし、天皇と言った時、戦前の天皇と、戦後の天皇とを、同一に論じていいのだろうか。現代日本の原点となった、敗戦時の天皇の言葉は、キリスト者の信仰の中でも受容できるものをもっているのではないだろうか。

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コメント

大東亜戦争・終結の詔書の中で、一番有名な個所は、こういわれています。

「時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う」

今、その太平の世が来ているのではないでしょうか。戦争がないという意味で。そして、ある意味での千年王国が。

投稿: | 2010年7月 5日 (月) 14時54分

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