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2010年7月27日 (火)

無教会主義の継承

内村鑑三の後継者たちの事業を思う時、聖書の研究者を挙げることができると思う。塚本虎二の本で、何とか異動一覧という大きな本があった。故高橋三郎氏が紹介されていて、一冊買った。内村の機関誌の名前が「聖書の研究」であり、弟子の中には、知識人が多かったので、聖書の研究者が多く輩出したのは当然なのかも知れない。しかし、この関心が無教会主義の本質かと言われれば、いや、違うかも知れないと思う。故高橋三郎氏は、無教会の中では、信仰の本質について熟考されていた方という印象が残っている。無教会主義のあり方についても、多く発言されていた。今、そのような人はなかなか見当たらなくなったかも知れない。

私は、無教会主義の本質というのは、預言者の伝統の中に生きることなのだと思う。預言者といえば、旧約の預言者に限定されると思うかも知れないが、聖霊の賜物の中には「預言」がある。だから、新約の、キリスト教の歴史の中でも、「預言」の実践は可能なのではないだろうか。

預言は予言ではない。重なる面もあるが、違う面もある。将来の事柄に関する発言では同じであっても、その発言が現在の倫理的生き方を誘発するかどうかという点で、違いが起きる。予言の中には、それがない。ただ、世間を騒がすのが目的のように思われる。一方、預言には、現在の生き方を改革し、改善し、発展させる力がある。だから、預言と予言は注意深く区別しなければならない。

キリスト教の歴史を見れば、預言を予言の中で解釈しようとした試みを知ることができる。再臨の日を特定した教派があった。しかし、再臨はなかった。預言と予言の混同のようにも思える。

無教会主義の本質ということで、私が思うことは、新約の預言者の輩出が、その使命なのではないかということである。内村鑑三が近代日本キリスト教史で最大の人物であったと思うのは、その預言活動のためではなかったであろうか。預言は神の言葉であれば、それは廃れないのである。

では、新約の預言者は、どのようにして生まれるのだろうか。それは再臨信仰の実践を意味している。内村の始めた再臨運動は短期間で終わってしまったけれど、『聖書の研究』終刊号を見れば、心残りがあったのが分かる。再臨信仰の日常的実践の中に、新約の預言者は輩出し、内村の思いは継承されていくのであろうと思う。

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