« 課題 | トップページ | 平和について »

2010年8月 5日 (木)

実存主義

私が大学生だった昭和40年代前半は、今よりも実存主義への関心は大きかった。キェルケゴールが、その真理性に気づいたとされるが、ニーチェも、あるいはもっと遡って、アウグスチヌスにも、その思想が語られている。キェルケゴールの影響を受けて、多くの思想家、哲学者が輩出した。その中には、サルトルのように無神論的実存主義とされる思想もあり、一般には、こちらの方がよく読まれたのではないだろうか。そんなこともあってか、マルセルはカトリック実存思想家と言われるけれど、カトリック教会の中には実存主義思想への批判もあり、自分が、そう呼ばれることにためらいを感じているという情報もあった。日本で哲学を教えていたカトリックの神父の中には、実存主義思想への反発を書いた人もいた。

私は、逆に実存主義にひかれていた。今もそうである。そして、それでいいのだと思っている。いや、そうでなければならないと思っている。それは、無神論に引かれるためではない。キリスト教実存主義思想は再臨信仰に結び付けられなければならないと思っているからである。

内村鑑三もキェルケゴールの名前に言及したことがあった。だから、彼も実存主義に触れたのである。しかし、これが、かつて旗振り役を演じた再臨信仰と関係があることについては語っていない。むしろ、その課題は、我々に委ねられているのではないかと思う。

実存主義はキリスト教的なものと、無神論的なものに区別されている。どれを採用するかは、その人自身が決めることである。それは、その中で、自分が生き、また死ぬためである。

我々は、やがて、いつかは死ぬ。生きるということは、その死ぬ時を一時も忘れずに、その準備としての生でなければならぬ。その思想と共に生き、その思想と共に死ぬ、そんな思想は、客観的真理だといって、教科書的に教えられるものではない。それは自分で選び取る以外にない。再臨信仰と結びついた実存思想は、私にとって、そんな思想である。しかし、残念ながら、現代の教会は、このことを知らない。知っていれば、教会の影響力は、もっと大きく、深いものになっているであろう。

|

« 課題 | トップページ | 平和について »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 課題 | トップページ | 平和について »