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2010年9月30日 (木)

国際司法裁判所への提訴

領土問題は国家間の主権の対立を生み出している。高じると戦争になる可能性を秘めている。なぜ、国連が放置しているのか、国際司法裁判所が取り上げないのか、分からない。しかし、日本は以前、提訴を試みたことがあるらしい。石原慎太郎氏は、この提訴について、週刊誌で、こう語っている。

「さらに日本政府は尖閣の領有問題を、オランダのハーグにある国際司法裁判所に訴え、明らかにしようとしてきた。ところが、原告の日本がいくら訴えても、被告の中国が出て来ないので裁判が成立しない。国際ルールによる決着を避け続けているのは中国なのです」(『週刊文春』2010.10.7、34頁)

しかし、今回は、全世界が注目しているのだから、もう一度、試みてもいいのではないか。中国としても、謝罪と賠償を要求しているのだから、今回ばかりは無視するわけにはいかないのではないだろうか。それと共に、日本の抱えている領土問題全部を提訴してみたらどうだろうか。

国家間の紛争を戦争で解決する道を放棄している日本は、対話という道を選択すべしとは言いやすいが、効力を考えたら、国際機関で決着を図る以外に有効な手段はないのではないだろうか。

この方法がだめであれば、別の方法を考えなければならない。

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2010年9月28日 (火)

戦略的互恵関係

最近、日中関係で、戦略的互恵関係という言葉がよく使われている。互いに合意しているので、尊重するのはいい。しかし、よく考えれば、なかなか難しく、解答がどこにあるのか、分からない。

以前は、「小異を捨てて大同につく」という言葉が使われた。尖閣諸島領有権問題は、最近のニュースによれば、小異の問題ではなくて、「大異」という印象を強く与えている。であれば、そこから「大同」を導くことができないであろう。

こんな課題を日本国民の全部が、最近、共有し始めたのではないだろうか。

それにしても、今回の騒動は、日本に内側ばかりではなくて、外側にも目を向けよという警鐘なのかも知れない。そして、中国に対して、どうつきあうべきか、よく考えろというメッセージが込められているのかも知れない。

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ビデオの公開

尖閣諸島沖の漁船衝突事件で、衝突前後のビデオがあるという。公開が検討されているようだけれど、公開すべきと思う。事件は、国際的な広がりを持つようになった。全世界が、この成り行きを注目している。

船長の処分保留での釈放は、やはり政治的判断があったのだろうけれど、日本の国民には、何か釈然としないものが残っているのではないだろうか。しかし、それは、審議を那覇地検という限られた場ではなく、全世界に移すという手段なのだと考えれば、納得されるのではないだろうか。

事実の前に、どう解釈するのか。船長は釈放されたが、ビデオが公開されれば、全世界に対しての釈明が求められるであろう。結果的には、日本にとっては、その方がよかったということになるかも知れない。

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2010年9月27日 (月)

中国のキリスト教

ブリタニカ国際年鑑の最新データによると、現代の中国の全人口の7~7.5%にあたる9100~9750万人がキリスト教徒であるという。しかし、国家公認教会と非公認教会との合計は人口の10%を超えている、1億3000万人を超えていると指摘する人もいるという。

日本の人口以上のキリスト教徒が中国にいるかも知れないのである。日本のキリスト教徒は全体で人口の1%くらいだから、中国の方がずっとキリスト教的な密度は濃いことになる。

共産主義のイデオロギーと、それが否定している宗教への関心、これが現代中国の実相なのだろうか。それにしても、このような膨大な宗教人口を抱えて、共産主義の理論家たちは、それをどう解釈しているのだろうか。

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共産主義三兄弟

共産主義三兄弟とは、ロシアと中国と北朝鮮である。もっとも、ロシアではなくソ連というべきではあるが、ソ連はもう地上から姿を消した。

長兄はロシア(旧ソ連)、次男は中国、三男が北朝鮮である。日本は、韓国を除いて、これら共産主義三兄弟に囲まれているのである。

それにしても、ロシアでも歴史検証への関心が高い。それは日本を意識して、北方4島の帰属に関して、戦勝を理由に妥協しない意味なのかも知れない。

しかし、ソ連がロシアになった。そこで共産主義の旗は降ろされた。その意味は何なのだろうか。長兄が降ろした旗を、次男も三男も、なお掲げている。その中で、中ロが共同で、歴史重視を表明するのであれば、共産主義そのものは何であったのか、ぜひ、ロシア側から、中国側に伝えてもらいたいものである。

共産主義の分析で独特な観察眼を持っていたのがベルジャーエフであった。宗教に冷淡である理論は、実は宗教的な要素を隠して持っているという分析で、もう、常識的な見方になっているかも知れない。

それにしても、尖閣諸島問題では、日本人は中国の対応にびっくりしたのではないだろうか。しかし、結果的に、日本は自分の置かれている環境をもう一度、見直す機会があたえられたのは、よかったかも知れない。自由主義と共産主義の対立の狭間に位置しているのである。

日本とは、突然、中国と、がっぷり四つに組んだ相撲を始めてしまったようである。モンゴル出身の横綱が大記録を更新中である。そこには日本人以上に立派な横綱がいて、出身国にも違和感はない。しかし、中国では、この横綱の快挙をどう見ているのだろうか。日本の国技の中で自分の親戚が勝利していると見ているのだろうか。

ソ連崩壊で、共産主義は過去の問題になったと思うのは間違いだろう。中国と北朝鮮の問題を、共産主義の観点から見るのであれば、理解が深まるに違いない。これらの国では、解放軍が今も健在であり、革命思想も生きているのであろう。

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2010年9月24日 (金)

他人の空似

最近、尖閣諸島関連で中国外務省の女性報道官がテレビによく出てきます。誰かに似ているなあ、と思いつつ、それが誰か、分かりませんでした。

ある時、ああ、ジャーナリストの江川紹子さんだと思いました。他人の空似というものでしょうか。

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2010年9月20日 (月)

尖閣諸島問題

尖閣諸島問題で、中国側の抗議が続いている。そこには、日本と中国との間で、島はどちらのものかという前提の共有がない。それに台湾もからんでいるという。国際的な司法機関はないのだろうか。

日本には憲法がある。憲法の平和主義は、戦争防止に対しても積極的な活動を期待しているのではないだろうか。ただ、米国の巨大な軍備に依存して、米国に守ってもらうだけを期待していていいのだろうか。そういう前提の日本政府と、「もう犠牲はたくさん」という沖縄の民意の間で、まだ解決の道は見つかっていない。平和主義への主体的取り組みを全世界に展開するという、新しい方針が生まれれば、その中で、あるいは解決が見つかるかも知れない。

さて、尖閣諸島問題は戦争に発展する契機を孕んでいるのではないだろうか。米国では、この島は安保の範囲内というから、中国としても、そこまで事柄を発展させたくはないであろう。

戦争の防止のために、国際連盟があったし、また国際連合もある。国際連合の中に、こういう問題を引き受ける部署はあるのだろうか。もしないとしたら、何のための設立かと問われるのではないだろうか。

また、世界連邦の活動もある。湯川秀樹さん夫妻が、この活動に参加していたし、賀川豊彦の名も、その歴史に出てくる。しかし、今、余り、活動がマスコミに載らない。こういう現実の差し迫った問題を引き受けなれれば、活動の意義が問われるのではないだろうか。

最近、政府に国家戦略という部署が出来た。国家戦略とは、将来を見据えた活動を期待されているのだろうが、尖閣諸島問題のように、日本と中国との間での基本認識が異なる場合、国家の枠を超えて何かをすることはできないであろう。

日本は戦後もう65年も経っているのであるが、憲法の平和主義を世界に向かって実行していくマニュアルを持っていないような気がする。ウィキペディアには載っていなかったが、道徳再武装(MRA)運動や、運動を推進したブックマンの遺産をもう一度、検証してもいいのではないだろうか。

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2010年9月19日 (日)

平山郁夫さんのこと

ウィキペディアを常に手許において検索できる小型モニターが発売されている。思わぬ発見をすることがある。

日本画家で、仏教画を多く残している平山郁夫さんが、日本キリスト教団霊南坂教会員であると知らされ、びっくりしたことがある。仏教の信仰をお持ちなのかと思っていたからである。なぜ、霊南坂教会と結びついたのか分からないでいた。

実は、平山さんの奥さんが、霊南坂教会の信徒で、実業家、政治家であった松山常次郎さんの長女であった。奥さんの影響で、霊南坂教会と結びついたのではないだろうか。

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2010年9月17日 (金)

青田昇氏のこと

プロ野球選手だった青田昇氏がクリスチャンだったという。

野球解説者としてはテレビで知っているが、現役の選手としての姿は記憶にない。

ウィキペディアによると、妻が年来のローマ・カトリック信者で、子供らも同信徒であった。そのため、闘病中の1997年10月に、カトリックの洗礼を受けたのだという。その翌月の4日に、72歳で死去している。ということは、信仰は妻の影響で、亡くなる間際に信徒になられた、ということであろう。人は、隣人の影響を強く受けるものである。

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2010年9月12日 (日)

アンブロシウス

313年、ローマ帝国でキリスト教が公認された。これで初代教会における殉教の時代は終わった。その後、キリスト教は国教になり、帝国は東西に分裂する。それは、どういう意味なのだろうか。

塩野七生さんの「ローマ人の物語」がベストセラーなのだという。新潮文庫で「キリストの勝利」(上・中・下)が出ている。特に、下巻が、国教化と帝国の分裂を扱っている。本体362円である。

そこでは、ミラノの司教アンブロシウスの重要性が指摘されていた。彼は、アウグスチヌスの回心の時に出てくるが、その関連以外に注目はしていなかった。しかし、ローマ帝国におけるキリスト教の発展に関しては重要人物であることが、この本で分かった。

キリスト教の国教化に伴い、異端への締め付けが厳しくなる。正統信仰と異端との関係、教会と帝国との関係など、考えさせられるものが多く含まれている。

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「四重の福音」

ホーリネス教会では、信仰の柱として「新生・聖化・神癒・再臨」の四つを重要ととらえ、それを「四重の福音」という。この捉え方は共感するところが大きいのだが、何か、異物が混入しているような感じも持っていた。それは神癒である。なぜ、神癒が入っているのだろうか。

過去には新生、現在には聖化、将来には再臨と見れば、この三つの言葉で過去・現在・未来という時間の全体が捉えられている。とすれば、神癒は必要ない。だから、「三重の福音」として、「新生・聖化・再臨」でみいいはずである。その方が分かりやすいのではないだろうか。しかし、「神癒」を加えて、「四重の福音」という。

そこに、神癒を加える意味は何なのだろうか。

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2010年9月 8日 (水)

なぞなぞ

問 アウグスチヌスとかけてウェスレーととく。その心は?

答 自分の所属教会の外に、自分の熱心な信奉者がいます。

メモ アウグスチヌスの信仰は、彼が属したカトリック教会よりも、プロテスタント教会の方で熱心に学ばれているし、ウェスレーの信仰は、彼が属した英国教会よりも、メソジスト教会やホーリネス教会に継承されていると思います。どうしてなのかは分かりません。

アウグスチヌスはカトリック教会の司教であったし、ウェスレーは英国教会の司祭であった。二人の信仰を学ぶ人たちには、これらの立場は、余り重視されないかも知れませんが、それらを知って、「なぜ?」と、頭をかかえる人もいるかも知れません。

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2010年9月 3日 (金)

平和運動

最近、「みんなの党」の渡辺喜美代表の発言がテレビで流れたが、その中に、「ハルマゲドン」という言葉があった。世界最終戦争の意味なのだが、もともとは聖書からとられている。

「三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した」(ヨハネ黙示録15・16)

最近の報道によれど、、先の戦争で、日本が連合国への降伏文書に署名した昭和20年9月2日を覚えて、ことし、9月2日を、ロシアが「第二次世界大戦終結の日」を制定し、各地で「戦勝」の祝いがあったという。その意味するところとして、新聞はかなり詳しく報じている。

ところで当時の日本の相手は、ロシアではなく、ソ連であった。戦争が終結して、その後、戦勝国のソ連は地上から姿を消した。そのソ連とロシアとの関係は、どうなのだろうか。日本の戦前と戦後のような関係があるとしたら、果たして「戦勝」を喜ぶことができるのだろうか。共産主義のイデオロギーを失った、現在のロシアは、政治的舵取りをどう行うのだろうか。

聖書の終末論では、再臨の前にハルマゲドンが予想されている。このハルマゲドンは結果的に未来のことになるかも知れないが、それを過去のことにする解釈と努力が本当の平和運動なのではないだろうか。

戦争を繰り返さないためには、この戦争、すなわち第二次世界大戦をハルマゲドンと見なさなければならないのではないだろうか。その中で、再臨信仰を確立すべきなのではないだろうか。

内村鑑三の再臨運動は、賀川豊彦の世界連邦運動、どちらも、平和希求活動である。日本の世界的使命が平和活動であるとすれば、これら先達の信仰の継承の中で、その使命遂行を展開すべきではないのだろうか。

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2010年9月 1日 (水)

信仰と行為

「ここがロドスだ。ここで跳べ」。この言葉はイソップ寓話にある「ほら吹き男」の話に出てきます。ヘーゲルも、この言葉を自分の著書の中で引用しています。意味は「論より証拠」というものでしょう。
聖書の中にも、同じような趣旨の言葉があります。行いのない信仰は無意味である、とあります。
これは、信仰の重要性を否定した言葉ではないと思います。信仰の成長を促す言葉ではないでしょうか。
信仰は行為とつながっています。成功の秘訣を知った人は、その秘訣を試してみたくならないでしょうか。そんな動機が、行為につながっているのでは、と思います。
信仰は成功の秘訣でもあります。信仰に、そういう認識が伴うかどうか、それが問われているのかも知れません。
マーフィーの法則という本があります。マーフィーという人物は牧師かも知れません。内容は、聖書の読み方の一つかも知れません。しかし、世俗的な成功よりも、「神と共にある」という状態を、私は尊いと思います。と同時に、「神と共にある」人が、世俗的な面でも成功を望んでもいいのではないかとも思います。そんな動機が形成できるかどうか、それも問題かも知れませんが。

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過去・現在・未来

時は過去、現在、未来を流れている。過去はあったこと、現在はあること、未来はあるであろうことで、違いがある。
我々は、出来事を思う時、この三者の関係を問わなければならない。
キリスト教信仰を思う時、十字架の死は過去のこと、復活は現在のこと、再臨は未来のことに関係している。とすれば、再臨は、十字架、復活と共に不可欠な信仰の条件である。再臨なくして、信仰は完結しないのである。

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