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2010年9月20日 (月)

尖閣諸島問題

尖閣諸島問題で、中国側の抗議が続いている。そこには、日本と中国との間で、島はどちらのものかという前提の共有がない。それに台湾もからんでいるという。国際的な司法機関はないのだろうか。

日本には憲法がある。憲法の平和主義は、戦争防止に対しても積極的な活動を期待しているのではないだろうか。ただ、米国の巨大な軍備に依存して、米国に守ってもらうだけを期待していていいのだろうか。そういう前提の日本政府と、「もう犠牲はたくさん」という沖縄の民意の間で、まだ解決の道は見つかっていない。平和主義への主体的取り組みを全世界に展開するという、新しい方針が生まれれば、その中で、あるいは解決が見つかるかも知れない。

さて、尖閣諸島問題は戦争に発展する契機を孕んでいるのではないだろうか。米国では、この島は安保の範囲内というから、中国としても、そこまで事柄を発展させたくはないであろう。

戦争の防止のために、国際連盟があったし、また国際連合もある。国際連合の中に、こういう問題を引き受ける部署はあるのだろうか。もしないとしたら、何のための設立かと問われるのではないだろうか。

また、世界連邦の活動もある。湯川秀樹さん夫妻が、この活動に参加していたし、賀川豊彦の名も、その歴史に出てくる。しかし、今、余り、活動がマスコミに載らない。こういう現実の差し迫った問題を引き受けなれれば、活動の意義が問われるのではないだろうか。

最近、政府に国家戦略という部署が出来た。国家戦略とは、将来を見据えた活動を期待されているのだろうが、尖閣諸島問題のように、日本と中国との間での基本認識が異なる場合、国家の枠を超えて何かをすることはできないであろう。

日本は戦後もう65年も経っているのであるが、憲法の平和主義を世界に向かって実行していくマニュアルを持っていないような気がする。ウィキペディアには載っていなかったが、道徳再武装(MRA)運動や、運動を推進したブックマンの遺産をもう一度、検証してもいいのではないだろうか。

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コメント

マスコミで報じる尖閣諸島問題は中国の強硬な姿勢のために、日本の対話呼びかけも無視されている。原理で通そうとすれば、二つの国の主張の両立はありえない。そんな時、どうすればいいのか。当面は分からない。しかし、信仰の中では、この問題にキリストの再臨と最後の審判を祈ることはできる。最後の審判の前には、日本も中国も服せざるを得ないからである。しかし、そんなアイディアが、人間の限界内での作業にあるのだろうか。中国には、弁証法的歴史観というものがあろうが、であれば、正反合の合の立場に移行する可能性も理解されるだろうか。しかし、中国には、少し信じられないくらいの多数のキリスト者がいる。共産主義理論の中で、この現実は、どう解釈されているのだろうか。中国もまた、国内に矛盾を抱えているのではないだろうか。

投稿: | 2010年9月23日 (木) 12時00分

24日、船長の釈放で事態は動きました。しかし、尖閣諸島は、日本のものか、それとも中国にものか、この点については、未解決のままです。この点の解決が平和活動でもあるのではないかと思います。日中だけでは解決しそうもありません。国連の仲介を求めるべきなのでしょうか。日本としては、この対立を踏まえて、自分の主張を国際的な司法機関に提訴すべきと思います。どれがいいのかは分かりませんが。日中関係で戦略的互恵関係を求めていくといっても、領土という基本的な部分での合意がなければ、難しいのではないでしょうか。

投稿: | 2010年9月24日 (金) 21時56分

釈放の利用は、政治的なものでした。ところで、検察が政治的判断を行うことはできるのでしょうか。法の番人が法を犯していることにはならないのでしょうか。民主党は、政治主導といってきたのですが、この点では、それがなかったようです。民主党が政治主導で判断していれば、検察は「法を犯す」ことはなかったのではないでしょうか。検察の判断は最高検もからんでいるので、最高検が法を犯しているのなら、誰が、法の番人になるのでしょうか。
それにしても、中国の圧力は半端なものではない。これも、尖閣諸島が自分の領土という前提によるものなのでしょうが、その前提がおかしいという疑問はなかったのでしょうか。この土地は、沖縄返還の前は米国が持っていました。ですから、米国が関係していたのです。どこから中国領土になったのか。中国は、それも明らかにする責任があるでしょう。常に、「歴史を忘れるな」と言い続けているのですから、その言葉を今回も生かしてもらいたいものです。
中国の「恫喝」のような姿勢に屈したような日本ですが、中国には別の不安もあります。高度経済成長で喜んでいても、自然破壊は進んでいるのでしょう。公害で苦しんだ日本の跡を進むような気がしています。その時は、自然は、「恫喝」に屈するような「やわ」な存在ではありません。その時が、どのようにして来るのか、少し注意している必要があるかも知れません。

投稿: | 2010年9月25日 (土) 06時20分

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