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2010年11月29日 (月)

空中再臨

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(使徒言行録7・55~56)

キリストの再臨は信仰個条であり、疑うことは許されていない。しかし、それがどういうものかは、プロテスタントの中には、いろいろな説がある。空中再臨、地上再臨があり、空中再臨後に千年王国が始まると考えられている。しかし、それは一つの説であり、千年王国の後に再臨とか(その場合は、空中再臨はないのだろうか?)、千年王国はないとか、いろいろと説はある。では、あなたはどうなのか。

空中再臨については、荒唐無稽といった印象を持つ人もいるかも知れないが、聖書(テサロニケⅠ 4・15~18)に、その根拠がある。その聖書個所をどう解釈するのか。

地上再臨とは、具体的な、最終的な出来事であろう。とすれば、空中再臨とは、それと区別されるであろう。であれば、ある意味で途上のものであるかも知れない。歴史の過程における、信仰上の出来事なのかも知れない。殉教者ステファノが見たもの、そういう出来事の中に、空中再臨を考えることはできないであろうか。しかし、空中再臨を、そう解釈している人は、いないかも知れない。

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クリスマスの準備

11月28日は待降節第一主日。クリスマスの準備が始まる。

クリスマスの祝いがよく分からなかった。降誕は過去のこと、それなのに、なぜ「準備」をするのか。

今、再臨信仰の中で、クリスマスの準備を捉えかえすべきではないか、と思う。キリストは再臨される。だから、準備をするのである。この前提の中で、はじめて、クリスマスを迎える準備は意味を持つのではないだろうか。

降誕は過去のこと。過去が過去だけにとどまるのであれば、余り意味はない。意味は未来から来るものだからである。

信仰は過去・現在・未来に、すなわち、すべての時間にかかわるものである。降誕は過去のこと、その過去が聖霊降臨によって、現在のことになり、再臨によって未来に関係する。聖霊降臨は出来事としては過去のことではあるが、現在に続いている。教会が地上に存在することは、聖霊がなお地上にとどまっていること、信仰者が起こされることは、今も聖霊が降臨しつづけていることを意味している。そして、それらは、再臨において完結する。

意味は未来から来る。未来の確実な事柄に注目して、現在との関係を構想する中に意味が現れてくる。その意味を希望という。そういう意味で、クリスマスの希望は、再臨信仰の中で、はじめて捉えられるものである。

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2010年11月14日 (日)

戦略的互恵関係

戦略的互恵関係とは何か。AとBがいる。ある問題で、両者が対立している。その時、どうしたらいいのか。

対立している次元の中では、問題は解決しない。別の一段、高い次元での一致が求められている。それを目指すのが、戦略的互恵関係なのであろう。

この言葉が受け入れられやすいのは、互恵の言葉ではないかと思う。なぜなら、そこでは、AもBも、同時に肯定されているからである。しかし、対立している現在の次元において、それは成り立たない。だから、この時の関係は、AもBも、共に肯定されつつ、次元を飛び越えるという点では否定されてもいる。

この言葉は、現在の日中関係で、よく使われている。

中国では、共産主義理論の中で、弁証法が学ばれているであろう。日本では、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の論理であろうか。

共に肯定される道は、共に否定される道でもある。その道は何か、日本には、それが問われているのではないだろうか。

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2010年11月12日 (金)

福音派

福音派に見習うべき点は、伝道熱心なところである。原理主義的「偏狭さ」の指摘を避けて、福音派といっている面もあるが、両者は重なる面もある。

自民党の石波茂議員の母方の曽祖父に金森通倫がいる。金森は一時、棄教したが、その後、信仰を取り戻し、救世軍、ホーリネス教会と所属しつつ、伝道活動を展開した。その時、「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開した。「百万人救霊伝道」といった。

福音派の伝道熱心さの背景には、このように福音の単純化・集中化といった手順があったのかも知れない。キャンパス・クルセードには、四つの法則があり、ホーリネス教会には四重の福音がある。

四つの法則は、「神・罪・救」に決断が加わったもの。決断は新生体験といってもいい。個人伝道においても、「招き」の重要性を訴えているようでもある。だから、「神・罪・救」の一つ上のバージョンといっていいかも知れない。それに対して、四重の福音は、もともと、カナダ生まれの牧師、A・B・シンプソンの提唱したもので、内容は、新生・聖化・神癒・再臨である。シンプソンの提唱はホーリネス教会の信仰の立場になっている。

これら二つを比べてみると、四つの法則は、四重の福音の新生への招きであることが分かる。

だから、「神・罪・救」、四つの法則、四重の福音の順序で、信仰の深化が語られている。

聖書の解釈では、特に終末論、千年王国では、いろいろな説がある。しかし、再臨というキーワードがキリスト教信仰の中でなくなることはない。信仰の森の中で道に迷ったように思ったら、教会全体の信仰である、いくつかのキーワードに帰ってみるのもいいかも知れない。

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2010年11月 9日 (火)

宇津井健さんのこと

俳優の宇津井健さんがクリスチャンになった。これはもう旧聞かも知れないが、最近、知った。

2005年の10月24日、クリスチャンになっていた重病の妻の姿に打たれて、自分もクリスチャンになったのだという。

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2010年11月 8日 (月)

ろば

聖書には、「ろば」の役割りが明瞭に書かれています。

イエスがエルサレムに入った時、ろばに乗られました。しかし、それは旧約聖書の預言(ゼカリア書)の成就という意味であったと解釈されています。新約聖書の四福音書のいずれにも書かれています。しかし、アブラハムがイサクをささげようとした時にも、ろばが登場しています。聖書の物語の重要場面に登場するのが「ろば」です。

「明日の朝、神様がいらっしょるよ」の歌詞に、どうして「ろば」が出てくるのか、多くの日本人には不可解かも知れません。しかし、聖書に親しんでいれば、それはよく理解できます。あるいは、作詞者には、そのような背景があるのでしょうか。

聖書(口語訳)の引用をします。

「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創世記22・3)

「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリア9・9)

「ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(マタイ21・7)

「そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった」(マルコ11・7)

「そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした」(ルカ19・35)

「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは…」(ヨハネ12・14)

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2010年11月 7日 (日)

歌詞の感想

「深夜便のうた」で、今流れている「明日の朝、神様がいらっしょるよ」の歌詞は長いのですが、その中から、一部、思うところを記します。歌詞には聖書的な内容を連想させるものも感じています。

「明日の朝、神様がいらっしょるよ 遠い約束 果たすために 光の中へ もうすぐ」

確かに、もう2000年も経ちました。再臨の約束は、遠い昔の約束なのです。そして、光の中に来る、という。すべてが光に照らされて、明らかになるという意味なのかも知れません。

「苦しみはもうない 悲しみはもうない ロバを連れて、迎えに行こう 風が走る 草原に 風が走る 草原に」

苦しみ、悲しみがないということは、神の国、天国の実感なのでしょう。しかし、天国というと、死んでから行くところとか、地上ではないという思いと結びつくかも知れませんが、再臨には、そんな観念はなく、この地上に神が来られるという発想でしょう。

ここで、ロバが出てきます。イエスがエルサレムに入った時に乗っていた動物がロバでした。その状況と重ねているのではないでしょうか。再臨のイエスもまたロバに乗られるという意味で。しかし、そうなるかどうか。ただ、人間の側で「迎える」という姿勢を意味しているのかも知れません。

そして、風が出てきます。風は聖霊の意味かも知れません。再臨と聖霊は関係があるという意味かも知れません。

「明日の朝 神様がいらっしゃるよ 愛を汚した罪人たちに 剣の裁きを下しに」

「愛を汚す」とありますが、これが最終的な罪の構成要因なのかも知れません。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイ12・31)。聖霊は神であり、神は愛であると考えれば、愛を汚すことは、許されない罪を構成することになります。

そして、このような裁きがあるということは、最後の審判を予想させるものではないでしょうか。

「明日の朝 神様がいらっしゃるよ 涙の跡を癒すために 血が流れた草原に 血が流れた草原に」

人間の罪の結果である悲惨という現実の真っ只中に、神は来られるということでしょうか。

こういう歌詞が、深夜便に流れているということは、感謝です。

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2010年11月 5日 (金)

尖閣諸島沖の漁船衝突事件ビデオの流失公開

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(マルコ4・22)

この言葉を味わっています。官房長官のいう柳腰というのは、親鸞の教えにある自然法爾を思わせます。中国の隣人たちには、公開されたビデオの真実性への疑問もあるかも知れませんが、私は本物と思います。

事実に基づいて議論するのが自然法爾の教えにふさわしいでしょう。ビデオ投稿者の「sengoku」にも、そんな意味が込められているのかも知れません。

しかし、「どうして、誰が?」という問いに、日本のマスコミは、ここ数日は振り回されるのではないでしょうか。

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2010年11月 1日 (月)

再臨待望の歌

NHKのラジオ深夜便で、いま、「深夜便のうた」として、「明日(あす)の朝、神様がいらっしゃるよ」が、ことのみ児童合唱団により歌われています。曲は、岡本おさみ作詞、宮川彬良作曲です。いろんな聞き方があると思います。

歌詞を全部、確かめたわけではありませんが、キリスト者にとっては、再臨待望の歌ではないでしょうか。こんな歌が賛美歌や聖歌にあってもいいかなと思います。

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