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2010年12月 3日 (金)

もう一つの中世

これまで我々にとって中世とは西洋のそれであった。その要素としては、ギリシャ、ローマ、ユダヤがあった。ギリシャは、人間の内面(哲学・宗教)のこと、ローマは外面(法律)のこと、そして、ユダヤは超越の契機であった。この三つの要素がうまく関係しあって、西洋の中世はできたといわれてきた。あるいは、それにゲルマンを付け加えるべきかも知れないが。このような中世ではキリスト教の教えが支配的であった。

そのような中世をもう一度、復興させるべきなのであろうか。吉満義彦がフランスに留学して、教えを受けたジャック・マリタンの志向の中には、そんなものがあったかも知れない。「新しき中世」は、その交わりの中にいた亡命ロシア人哲学者、ベルジャーエフの言葉ではあるが、当時は、よく使われた言葉らしい。

遠藤周作が聖フィリッポ寮(現在の真生会館)の寮生であった時、吉満は舎監であった。その時、二人の間に交わされた会話が遠藤の文章の中に残されている。吉満の中世志向に対して、遠藤は、日本には、そのようなものはないと、批判的な思いを抱いていたという。しかし、吉満は、かつての中世に戻るのではなく、新しく創るのだといったという。かつての中世における永遠なるものを思いつつ、新しい中世を創造していく、それが吉満の願いであったのだろう。

今、経済成長に関しては、中国とインドが注目されている。日本人の関心は西洋よりも、アジアに向けられている。21世紀はアジアの世紀になるのであろうか。その時、かつての西洋の中世と対比して、アジアの中世を構想したら、どうなるのであろうか。

ローマに対して中国、それは外側の整備。ギリシャに対してインド、それは人間の内面の探求、そうするとユダヤの役割は日本に向けられるのだろうか。

日本には、歴史を見れば、中国もインドも流れ込んでいる。徳川時代の儒教の教えは中国からであり、それ以前、聖徳太子の時代からインドからの仏教は国民の中に深く浸透している。これら両者を受容しつつ、かつ超越する契機、それがあるとすれば、それが啓示の要素であろう。すべてを受容しつつ、超越する契機としての「啓示」の要素を提供できれば、あるいは、それが日本の使命かも知れない。そして、それはアジア版中世の要になるかも知れない。

残念ながら、そんなことに関心を抱く人はいないけれど。

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