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2010年12月24日 (金)

宗教的包括主義

諸宗教間の関係では、宗教的排他主義、同包括主義、同多元主義があるという。ビリー・グラハムの息子さんが最近、クルセードを行い、キリスト以外に救いがないと言明した。一応、排他主義の立場で語っている。救いを得るための決断を促すのが目的であるから、そういう言い方になるのは理解できることである。しかし、排他主義を短絡的に受けとると、いろいろな問題が起きる。それを避けるために福音主義という言葉があるといった説明を読んだことがある。ここでの排他主義は、根本主義(ファンダメンタリズム)であり、最近は原理主義という言葉が使われている。

排他主義の根本が間違いだというのではない。それは福音主義者が、信仰の根本は根本主義と同じと認めているのと同じことである。排他主義を語っている聖句がいくつかある。他の立場の人たちは、それらの聖句の前に、どう対応できるだろうか。対立しているのは多元主義であり、包括主義は、対立してはいないだろう。ただ、他者に対して、単純な否定のみか、それとも肯定と否定を持てるか、その対応の仕方の違いなのであろう。

カトリック教会が、第二バチカン公会議を開催していた頃、多くの神学生が司祭への道を捨てたという。強力な遠心力が働いたのかも知れない。カール・ラーナーらの宗教的包括主義、「無名のキリスト者」といった考え方が受け入れられて、教会は新しい道に歩みだしたという理解がされている。

しかし、包括主義は、カトリック教会にとって、新しい道なのだろうか。例えば、アウグスチヌスやトマス・アクィナスを考えた時、彼らはギリシャ思想を、啓示とは別に、受け入れていたのである。ということは、宗教的包括主義であったのではないだろうか。ギリシャ思想は啓示の世界ではない、だから、それを放棄していれば、中世は、そもそも生まれなかったであろう。

しかし、もう一つ、多元主義がある。これは、ジョン・ヒックの主張する説で、遠藤周作さんも、その影響を受けていた。最後の大作『深い河』に、その影響が見られる。しかし、中には、遠藤さんは、多元主義者になったと解釈する人もいるようだ。いや、彼は包括主義にとどまったのだという人もいる。私は、後者だと思っている。

多元主義は、他の宗教との対話においては、尊重すべきものだが、その人自身の信仰においては、すなわち、その人が宗教者である限りは成り立たないのではないだろうか。

包括主義の道は、新しい道というよりも、中世思想そのもののように思われる。そのような枠組みの中で、日本では他の宗教との対話が進展し、新しい洞察がうまれればよい。そこでは、ギリシャ思想の代わりに、インド、中国の思想、宗教が相手になるのであろうか。

こうして、第二バチカンの転換期に遠心力が働いて、ある人たちには信仰の中心が見失われたとしたら、新しい中心には、私は再臨信仰を置いてみたい。教会一致運動にしても、カトリックの戻れというのではなく、再臨しつつあるキリストを見上げていく中で、実現していくもののように思う。しかし、残念ながら、そういう視点を提供した人を知らない。

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