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2011年1月26日 (水)

波多野精一の再臨信仰

波多野精一は内村鑑三のように再臨運動を展開したわけではない。しかし、再臨信仰の核心は了解していたように思う。それは、名著『時と永遠』の中で、未来と区別して将来を説明しているからである。

人生には目的が必要である。その目的は未来にある。だから、未来に向けて、人は現在を生きることができる。現在から未来への眼差しが普通の眼差しである。しかし、再臨は違う。目的が向こうからこちらにやってくるというのである。目的が、彼方から現在に、まさに来たりつつあるという時間理解の中に、将来があるのだという。このあたりが再臨信仰の核心なのではないかと思う。それは、預言解釈の中で、日時を決めることではないと思う。

信仰は未来ではなく、将来に関わる。未だ来たらず、ではなく、将(まさ)に来たらんとす、の意味で。

人は普通、過去・現在・未来とは言うが、過去・現在・将来とは言わない。時間の流れの表記は、普通は未来でもいいのだろう。未来に何かが加わり、将来になるのだろう。それが信仰であるかも知れない。

未来を将来に転換し、その対象が日々、到来している実感、そこに再臨信仰の真髄があるのかも知れない。確実な未来の出来事に投企する幸い、それが信仰の最終段階なのだと思う。

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