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2011年1月 3日 (月)

初夢

内村鑑三の「初夢」は、以下のようなものでした。

恩恵(めぐみ)の露、富士山頂に降り、滴(したた)ってその麓をうるおし、溢れて東西の二流となり、その西もものは海を渡り、長白山(ちょうはんさん)を洗い、崑崙山(こんろんざん)を浸し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑(みずそそ)ぎ、ユダの曠野(あれの)に至って尽きた。その東のものは大洋を横断し、ロッキーの麓に黄金崇拝の火を滅ぼし、ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿(みや)を潔め、大西洋の水に合して消えた。アルプスの嶺はこれを見て曙(あけぼの)の星とともに声を放って謡(うた)い、サハラの砂漠は喜んで蕃紅(さふらん)の花のように咲き、こうして水が大洋を覆うように主を知る知識は全地に充ち、この世は化してキリストの王国となった。私は睡眠(ねむり)より覚め、独(ひと)り大声で呼んで言う、「アーメン、どうか聖旨の天に成るように地にも成らせよ」と。

冒頭、「恩恵の露、富士山頂に降り」とあります。その意味するところは深いかも知れません。単なる日本中心の思想ではなく、神秘的日本の洞察があるのかも知れません。内村は、どこかで、ミステリアス・ジャパンと言っていたように思います。

そのあとに、「滴ってその麓をうるおし、溢れて東西の二流となり」と続きます。すなわち、麓、日本を生気づけ、やがて、溢れて、外国に流れていくという意味でしょうか。「うるおし、溢れて」という個所を思う時、宣教というものは、まず受け止めた者を満足させて、その満足が溢れて、その過程で成り立つものだという意味かも知れません。日本に神の恵みが溢れる時、それは当然、外の国々に流れていきます。だから、宣教の条件は、神の恵みをいっぱいに受け取ること、それを自分の中で溢れさせることかも知れません。

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コメント

東京からも富士山がきれいに見える。日本人としての幸せの一つは富士山を見て、その美しさに感動することではないだろうか。

ところで、内村鑑三の詩に「初夢」がある。その詩を書いた時に、ノアの箱舟が漂着したアララト山と富士山を重ね合わせて見たことはなかっただろうか。

投稿: | 2011年3月 4日 (金) 19時25分

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