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2011年2月21日 (月)

救われるのは誰か

巨大宗教教団「幸福の科学」が大川隆法総裁の離婚劇で騒がしい。こんななか、渦中の大川きょう子さんが、『週刊新潮』(2月24日付)に特集で、告白記事を載せている。

この記事で、「帰天」(死去のこと)とか「告解」(告白のこと)とか、カトリック用語が使用されているのが気にかかった。

記事は、冒頭、キリスト教との出会いと別れについて、書いている。

「元々、私は宗教というものに興味がありました。中学生の頃にはもう聖書を読み始めていました。ただし、教義の中にどうしても躓いてしまう点があったので、洗礼は受けなかった。キリスト教は、信者でなければ天国には行けないという教えです。しかし、それを考えながら学校へ行くと、“ああ、この人も天国には行けないのか、この人も……”と見えてしまう。それは私には地獄みたいに見えました。同級生はみんなそんなに悪い人ではありません。それなのに、何の罪があって地獄に行かなければならないのか分からなかった。そうして私はキリスト教からはなれ、最終的に行き着いたのが「幸福の科学」でした」

きょう子さんは、高校生の時にはキリスト教から離れていた、という。

こういうキリスト教批判に対して、教会側はどう答えるのだろうか。

きょう子さんの言い分には大いに共感できる部分がある。だれでも一度は思うのではないだろうか。キリシタン宣教の最初のころには、洗礼を受けなかった先祖は、どうなのかという問いがあった。なかなか、難しい質問であったであろう。

教会の歴史を見れば、なかなか解決のついていない部分もある。予定説と、その批判、しかし、両方ともキリスト教である。異端と正統も、教派によって違う。そんな部分の問いに悩んだのかも知れない。

イエス・キリスト以外に救われる道はない、と、そういう言い方もある。特に、米国の根本主義の大衆伝道者たちのメッセージは、この点を強調して、決断を迫るというパターンがある。しかし、他の宗教者たちが救われていないかと言えば、キリスト者や教会に属している人たちよりも、ずっと道徳的であり、品性も立派な人たちはたくさんいる。そういう人たちは、やがては地獄に行くのかといえば、きょう子さんは、恐らく、そう思ったのであろう。また、聖書の教えを、そう解釈したのであろう。そのように教えられたのかも知れない。しかし、この問題は、今もあるし、なくならないのではないだろうか。

カトリックには「無名のキリスト者」という考え方がある。これだと、他の宗教者でも救われる。その時、どこかで、他の宗教もキリスト教の影響を受けて、その影響の中で救われるのだという意味が込められている。これが宗教的包括主義なのだろう。おそらく、譲れるのは、この点までで、多元主義にまでは行かないであろう。宗教的包括主義も突き詰めれば、宗教的排他主義になる。

それと、宗教とは、もともと、自分の実存的問いから始まるのではないだろうか。その問いの中では、他者の問題は見えてこない。地獄で苦しんでいる人の関心は、まずは自分の救いであり、そのあとで、他者の救いを思う余裕が生まれる。この自分の実存的問いには、やはり排他的な神という対象が求められているのではないだろうか。

自分個人の関心が救いのあとも継続していくのであれば、極端な個人主義や利己主義になるかも知れないが、それでも、人生の目標を失ったら、逆に生きていけないであろう。新しい目標としては、やはり「神」を考えざるを得ない。

救いとは、このような実存的問いに対する回答として、また魂の平安として、与えられる。そして、この段階に達したのであれば、棄教というのは、自分の魂に別な混乱を招くものである。

きょう子さんが、キリスト教を離れたと、簡単に言うのは、この救いの前の状態であったのではないだろうか。キリスト教を知識としては知っている。しかし、聖霊を受けて、新生を体験した者として知っているのではない。そんなふうに思える。

洗礼を受けて、人は新生するのか、と言えば、パウロの場合は、そうではなかったであろうし、また、十字架上のイエスを受け入れた人も、そうでなかった。「のぞみの洗礼」は、水の洗礼ではないが、有効とも言われる。
洗礼を受けて、そのあと、新生が来る人もいるだろう。水の洗礼と新生は、深いつながりがあるが、同一ではない。

いずれにしても、きょう子さんの問いは、普遍的な問いであり、教会に突きつけられている。

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