« 日ユ同祖論の素材か | トップページ | 四苦 »

2011年2月28日 (月)

ヨナ

ヨナ書の意義というものは、神の召命を拒んだ時にどうなるのかという点にある。旧約聖書を通して、神の言葉が臨んで、預言者となった人々の例では、イザヤ、エレミヤなどがいる。モーセも、そうだった。しかし、みな、神の言葉に従っている。

神の言葉を拒んだ時にどうなるかについては、ヨナが典型的な例と思う。

新約聖書では、イエスがヨナに言及している。マタイとルカの福音書に出ている。

「すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」」(マタイ12・39~41)

「「…邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。」(マタイ16・4)

ルカ福音書には、こうある。

「さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。…」」(ルカ11・29~30)

そこでは、「ヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなる」といわれている。 それは、どういう意味なのだろうか。

さて、聖書の検索で、ヨナを選ぶと、「ヨナタン」も選択してしまう。内村鑑三のクリスチャンネームは「ヨナタン」であった。これもまた、何かの「しるし」なのであろうか。新聞に、新しい内村の関連の本『信徒 内村鑑三』の広告が載っていた。不思議な現実である。

|

« 日ユ同祖論の素材か | トップページ | 四苦 »

コメント

「ヨナのしるし」とは何か。イエスの答えは、「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」ということである。これは、将来のことで、イエスが話していた時には実現していない。だから、当時のユダヤ人に対する「しるし」としての意味を持っているのだろうかという疑問が生まれる。それに、「大魚の腹の中」や「地の中」にいて、それが地上の人々に「しるし」として理解されるだろうか。やはり、その後のこと、即ち「復活」で、はじめて、イエスの語った「しるし」も理解されるのではないだろうか。そうすると、「しるし」というのは、我々が理解できるのは「復活」において、ということになる。しかし、それにしても、「復活」は将来のことである。イエスが、当時、話されていたユダヤ人たちには、「しるし」を識別する可能性はない。あるいは、将来、復活の告知を聞いたなら、それは「しるし」なのだという意味も持っていたのだろうか。であれば、将来のユダヤ人たちへの回答ということになる。

投稿: | 2011年3月 2日 (水) 08時12分

福音書には「しるしは決して与えられないであろう」と言う箇所もあったようにおもう。
なのに、人はしるしを求めたがる。ヨナのしるしは、私たちにとって腹の足しにならないから、もっとましなしるしをありがたがる。
ヨナが魚の腹から生還したことを、ニネベのひとは何によって認識できるのだろうか。
主が復活したことを私たちは何によって認識できるのだろうか。
ヨナ自らニネベで呼ばわった。でも、復活後の主はこの世に、自ら呼ばわってはいない。
だから、「しるし」は決して与えられないであろう、と予告したのかも知れない。
気になること。
「40日でニネベは滅びる」とヨナは言った。キリストの死後40年後エルサレムが崩壊した。
共同訳ではヨハネの子シモンとよばれるが、昔「シモン・バル・ヨナ」(ヨナの子シモン)
と訳されているのを見た覚えがある。気になる。

投稿: 木魚 | 2011年3月20日 (日) 00時21分

>主が復活したことを私たちは何によって認識できるのだろうか。
聖霊降臨、ペンテコステの出来事によってではないでしょうか。

「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネ福音書16・7)。助け主が聖霊です。

そして、この出来事は過去のことではなくて、今も継続している、なぜなら、救われる人が今もいるからである、と言ってもいいのではないでしょうか。洗礼を受ける人は今もいる。そして、洗礼を受けることの中には、聖霊の何らかの働きがある、と私は思います。

>ヨナ自らニネベで呼ばわった。でも、復活後の主はこの世に、自ら呼ばわってはいない。
復活の主は、それを教会に委ねられたのかも知れません。大宣教命令と言われるものを通して。

>「40日でニネベは滅びる」とヨナは言った。キリストの死後40年後エルサレムが崩壊した。
確かに。

>共同訳ではヨハネの子シモンとよばれるが、昔「シモン・バル・ヨナ」(ヨナの子シモン)
と訳されているのを見た覚えがある。気になる。

ヨナとは、何かと気になる名前ではありますね。

投稿: | 2011年3月21日 (月) 17時20分

この世がしるしを求めると、ヨナのしるしを与える。それは、「人の子も、3日の間地の底にいるであろう」というトンチンカンであるが、しるしを求める者に、激しい拒絶の姿勢がある。

「この世に渡され、足蹴にされ、死刑にされる」そのしるしならあげるよ、ということ。

こんな者が、神の子か。「おまえが神の子なら、十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」。自分の子供を守れないそんな情けない
父親が神か。
いつも四旬節になると湧く悲しみ。今年は本当に深い。


投稿: 木魚 | 2011年3月24日 (木) 01時52分

ヨナ書:-
私は生長の家、ものみの塔、キリスト教会を経て神道に還った。神道は神とは誰か、世の終わりはいつごろか、救いの条件とは何か、などに一切言及しない。『神居ますもの』として生き、祭祀を行う。私はこれが本当だと思っている。終末、神の選び、携挙、最後の審判、などの言葉を散々聴いた。独善と傲慢、不遜の臭いがする。伝道の書の最後に言う、『神を畏れその誠命を守れ、これは全ての人の本分たり』・・神社に詣で、そこに立って胸中を去来するのはこの言葉である。最近ヨナ書の一節が記憶の底から浮かび上がる。
『汝は労を加えず生育ざるこの一夜に生じて一夜に亡びし瓢を惜しめり。まして十二万あまりの右左を弁えざる者と許多の家畜とあるこの大いなる府ニネベを我惜しまざらんや』・・・そうだ、この世界の全ては自分をも含めて神の財産なのだ。それを選り分け見るような論調こそ傲慢不遜独善利己ではないか?

投稿: 高橋晃清 | 2011年5月25日 (水) 08時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日ユ同祖論の素材か | トップページ | 四苦 »