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2011年3月18日 (金)

実験

内村鑑三は実験という言葉をよく使っていた。もちろん、自然科学的な意味ではない。信仰の結果として、内心に現れる変化を意味していたのではないだろうか。それは聖霊の働きである。聖霊の賜物といった多様性の展開ではなく、救いの根本にかかわる聖霊の働きであったように思う。

実験といっても、神を試みるといった意図はなかったと思うが、信仰が根本的救いを起こさず、ただ自力救済の繰り返しの試みではないと強調したかったのではないだろうか。いくらか、信仰への勧めとして、促す意味は実験の言葉に含まれていたかも知れない。

実験は、信仰に何かが付加したものである。信仰は信じて仰ぐこと、その後、何かが起きる。その何かが信仰の真実を証明するという意味が込められているのだろう。

さて、罪と罰は原因と結果の関係でつながっている。旧約聖書の中には、そういう発想がある。だから、そういう発想は間違いだと一概に言い切ってしまえないかも知れない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6・23)とある。しかし、一方、イエスは、そのような現実を前にして、それは神のみわざの現れるため、ともいう。

「弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9・2~3)。

そのように言える背景に、十字架の死の意味があるのだろう。そこに、犠牲の意味が込められている。

犠牲とは経験している不幸の原因が自分にないということなのだろう。そのため、結果としての罰を受けていることから、原因・結果の原理を遡って、原因としての罪を他者の罪と交換できるということなのではないだろうか。それが贖いなのだろう。そして、そこに救いがあるのだろう。その現実が現れるのが、神のみわざなのではないだろうか。

イエスに罪があったのであれば、十字架の苦難と死は自分(イエス)のためであった。しかし、イエスに罪はなかった。そこで、十字架は他者の罪を処理する能力を持っている。この事実が福音、それを知らせるのが宣教、その適用が信仰なのだろう。

内村鑑三の実験には、信仰は信じて仰ぐこと、その後、何かが起きる、その何かが信仰の真実を証明するという意味が込められているのだろう。

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