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2011年4月27日 (水)

トマス・アクィナスの理解

中央公論社「世界の名著」14巻『アウグスティヌス』(責任編集・山田晶)の付録として、「キリスト教思想と人間」と題する、遠藤周作と山田晶の対談がある。その中で、山田氏は、トミズムとトマスの区別の必要を指摘している。

「山田 トマスの問題ですが、いわゆるトミズムとトマスを区別しなければならないと思うんです。トマスは、何十年もかかってアリストテレス、アウグスティヌスやアヴェロエスなどの古典や、あの時代の新しい知識を全部吸収し、そのうえで神学の体系をつくっていくわけです。しかも、それが完結しないで、最後は未完結に終わっている。ところが、神学校で限られた年限でトマスをやるとなると、非常に教科書的な公式的なものになってしまうんですね。ある意味で、トマスの精神が消されて、反対のようなことが行なわれているんじゃないかと思うんです。われわれがいまトマスからなにをいちばん深く学ぶべきかといったら、いろいろな思想にたいする謙虚な理解の態度だと思うんです。トマスは体系的な著作をする前に、アリストテレスや聖書などの非常に深いコメンタリーをたくさん作っていますね。」

学ぶべきは、諸思想に対するトマスの謙虚な理解の態度、と山田氏はいう。その通りと思う。山田氏の責任編集で、世界の名著20『トマス・アクィナス』(中央公論社)がある。トマスが、どういう人物であったか、この本が明らかにしている。スコラ学というと、実存的でないとして、関心が薄かったが、この本を読むことで、トマスの偉大さが分かったような気がする。異端に対する態度は、突き放すような傲慢な態度ではなく、それに含まれる真理を大切にしている謙虚さが「神学大全」には溢れている。

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「新しき中世」

中央公論社の「世界の名著」第14巻『アウグスティヌス』(責任編集・山田晶)の附録として、山田晶・遠藤周作の対談がある。その中で、遠藤が「新しき中世」という言葉を使っている。

「ご存知のように、吉満宣せははそのころジャック・マリタンにしたがって、「新しき中世」--近代の行きづまりということを考えておられた。「近代の超克」という座談会で、小林秀雄さんや亀井勝一郎さんなどとも、そうしたテーマで話しておられたこともあった。だけどそのときは、ぼくらには西欧的な近代というものがないではないか、と考えていましたね。吉満先生やマリタンは、中世が輝かしき時代であったといいますし、それはたしかに一面ではそうでしたでしょうが、西欧的中世がない日本に、近代が行きづまったから中世へかえれといっても、ピンとこなかった」

「新しき中世」の言葉の出所は、私の場合は、ベルジャーエフであるが、マリタンも使っていたという。遠藤は、ここで、この言葉に関連してマリタンや吉満を批判しているが、二人は、歴史的中世に帰れといったのだろうか。そうではないと思う。そのような発言も、二人にあったように思う。

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2011年4月25日 (月)

召命

召し出しとか、召命とか、いう言葉がある。司祭や牧師になるための自己理解のことである。

神学校に入るためには、これが問われる。牧師の推薦も必要になる。

しかし、だいぶ前のこと、同志社大学神学部の場合、牧師の推薦を必要としないという決定がなされた。それもまた、一つの選択であろう。この神学部には、その意味では入りやすくなった。牧師にならなくとも、キリスト教を学びたい人はいる。そんな人にとって、ここは都合がよい。

しかし、他のところでは、なお牧師の推薦、召命の証しが重視されていると思う。それも、神学校が、信徒たちの献金で支えられていることを思えば、誰にでも門戸を開くわけにはいかないであろう。

さて、召命を受けたというと、一般的には司祭や牧師になることを意味するが、それが伝道者への召命とだぶって理解されている。しかし、伝道者への召命は信徒にもある。カトリックには信徒使徒職という言葉がある。その実践の場は、どこにでもある。だれでも救いの経験があれば伝道者になれる。

牧師や司祭への召命が少ないという声を、時に聞く時がある。しかし、伝道者の召命は彼らにだけ与えられているのではない。内村鑑三は、近代日本の生んだ最大の伝道者である。しかし、彼は牧師でも司祭でもなく、一介の信徒であった。この事実は重い。

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2011年4月24日 (日)

東日本大震災

巨大なる  地震来にけり  列島に  ただ黙すのみ  犠牲者の死に

津波犯  捕まえてやる  子の気持ち  分かりはするが  人ではないよ

洪水の  再来なのか  今の時  富士を仰がば  アララトに似て

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2011年4月20日 (水)

中国のキリスト教

中国には、教皇に忠誠を誓うカトリックと、誓わないカトリック(公認の教会)がいる。この二つのカトリックとバチカンとの関係が、最近、関心を呼んでいる。バチカンの公認教会への「妥協的」姿勢への批判が中国内部にあるらしい。

しかし、中国のキリスト教信徒の人口は、日本と比べれば、驚くばかりに多い。

中国のキリスト教徒は、最近のブリタニカ国際年鑑によると、9100~9750万人で、人口の7~7.5%という。しかし、非公認教会を合わせると、1億3000万人を越えているという人もいる。人口の1割以上がキリスト教徒という。にわかには信じられないかも知れないが。

「世界キリスト教情報」(第1045信)によると、中国では、キリスト者が急増していて、最近の推計では、8000万人から1億3000万人の熱心な信徒がいるとのこと。経済ばかりでなく、宗教的にも中国の存在感が増してきている。

また、共産党員がキリスト教に入信するなどあり得ないと思っていたが、現実は、どうやらそうではないらしい。ウィキペディアによると、「中国共産党の幹部クラス党員やその家族の間にも広範かつ急速なキリスト教入信の流れがあり、日々勢いを増している」とある。

共産主義の(建前の)中国と、実態の(現実の)中国と、その間には大きな差がある。マルクスの宗教批判は、ここでは通用しないらしい。

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2011年4月13日 (水)

旅する教会

第二バチカンで、カトリック教会は旅する教会になったと言われる。ところで、旅する以上、その目的地が明確になっていなくてはならぬ。その意識はあるのだろうか。そして、目的地はどこなのだろうか。途上の目的地がいくつか挙がっているかも知れないが、それでは、周囲に思惑が働く。しかし、最終目的地では一致しているであろう。この一致達成の条件を一考すべきではないかと思う。

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2011年4月11日 (月)

震災で、絆という言葉が登場している。それを気づかせるような応援メッセージも多い。なぜなのだろうか。問うのもおかしいが、あえて問うなら。

人間にとって、最も恐るべきものは、死ではない、孤独である。死の恐さは孤独を連想させるからである。

この点を考えれば、この最高の恐るべきものからの回避を伝えたかったのではないだろうか。しかし、日本人は、体質的に、このような最高の悲劇からの免疫を持っているのかも知れない。発信においても、受信においても、震災後のマスコミ報道で、感動した人は多いと思う。

それにしても、人はやがては誰でも一人で死の道を行かなくてはならない。同伴者はいない。それは、やはり最も避けたいことではないだろうか。キリスト者の幸いは、その時に同伴してくれる方がいるということである。

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2011年4月10日 (日)

墓参

日曜日に教会に行く。どこか墓参に似ている。普通、墓は一ヶ所だが、こちらは、最後の晩餐の行事として、時間・空間を超えている。
信仰の発端は過去と現在を結ぶことであり、信仰の完成とは、過去・現在・未来が、その発端の中で繋がることである。内村鑑三流に言えば、前者は新生の実験、後者は再臨信仰であろうか。スタートを切った人は、ゴールを見なければならない。ゴールを見ていないキリスト者が、あるいは多いかも知れない。

墓参り 過去と今とを 繋ぐ道 未来があれば なおなおよろし

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2011年4月 6日 (水)

桜咲く  華やかにして

桜散る  無常の教え  国の花なり

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2011年4月 3日 (日)

今昔

洪水の 再来なのか 今の時
 富士を仰がば アララトに似て

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