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2011年4月25日 (月)

召命

召し出しとか、召命とか、いう言葉がある。司祭や牧師になるための自己理解のことである。

神学校に入るためには、これが問われる。牧師の推薦も必要になる。

しかし、だいぶ前のこと、同志社大学神学部の場合、牧師の推薦を必要としないという決定がなされた。それもまた、一つの選択であろう。この神学部には、その意味では入りやすくなった。牧師にならなくとも、キリスト教を学びたい人はいる。そんな人にとって、ここは都合がよい。

しかし、他のところでは、なお牧師の推薦、召命の証しが重視されていると思う。それも、神学校が、信徒たちの献金で支えられていることを思えば、誰にでも門戸を開くわけにはいかないであろう。

さて、召命を受けたというと、一般的には司祭や牧師になることを意味するが、それが伝道者への召命とだぶって理解されている。しかし、伝道者への召命は信徒にもある。カトリックには信徒使徒職という言葉がある。その実践の場は、どこにでもある。だれでも救いの経験があれば伝道者になれる。

牧師や司祭への召命が少ないという声を、時に聞く時がある。しかし、伝道者の召命は彼らにだけ与えられているのではない。内村鑑三は、近代日本の生んだ最大の伝道者である。しかし、彼は牧師でも司祭でもなく、一介の信徒であった。この事実は重い。

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