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2011年4月27日 (水)

「新しき中世」

中央公論社の「世界の名著」第14巻『アウグスティヌス』(責任編集・山田晶)の附録として、山田晶・遠藤周作の対談がある。その中で、遠藤が「新しき中世」という言葉を使っている。

「ご存知のように、吉満宣せははそのころジャック・マリタンにしたがって、「新しき中世」--近代の行きづまりということを考えておられた。「近代の超克」という座談会で、小林秀雄さんや亀井勝一郎さんなどとも、そうしたテーマで話しておられたこともあった。だけどそのときは、ぼくらには西欧的な近代というものがないではないか、と考えていましたね。吉満先生やマリタンは、中世が輝かしき時代であったといいますし、それはたしかに一面ではそうでしたでしょうが、西欧的中世がない日本に、近代が行きづまったから中世へかえれといっても、ピンとこなかった」

「新しき中世」の言葉の出所は、私の場合は、ベルジャーエフであるが、マリタンも使っていたという。遠藤は、ここで、この言葉に関連してマリタンや吉満を批判しているが、二人は、歴史的中世に帰れといったのだろうか。そうではないと思う。そのような発言も、二人にあったように思う。

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