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2011年5月30日 (月)

聖霊のバプテスマ

「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペテロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」
(使徒言行録8・14-17)

カトリック教会の「聖書と典礼」(2011.5.29)には、この個所(17節、手を置くと~)の説明があります。「堅信の秘跡を思わせる表現。ここで与えられる聖霊とは目に見える聖霊の賜物のようである」とあります。

「目に見える聖霊の賜物」とは、あるいは異言のことを指しているのでしょうか。

「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」とも言われています。この洗礼は水の洗礼を指すと思われます。水の洗礼は、そのまま聖霊を受けることではないと、ここでは言われているようです。しかし、聖霊を受けるということは、まず新生において見られるものではないのでしょうか。

ペンテコステ派は、聖霊のバプテスマを受けたことは異言を語ることで証明されると見ています。しかし、福音派は、別の意味で聖霊のバプテスマを考えてきました。それは、新生におけるものでした。それを水の洗礼とは違うと見て、それを重視し、指摘したジョージ・ホィットフィールドは、聖職者たちの不満を引き起こし、教会での説教ができなくなりました。水の洗礼を受けたら誰もがクリスチャン、という理解に対して、いや、水の洗礼のほかにも聖霊を受けることが必要で、そこでクリスチャンと言えるのだという理解の対立が、そこにありました。こののち、彼は野外説教を始めたのです。のち、それはジョン・ウェスレーに引き継がれました。

洗礼には水の洗礼と聖霊の洗礼があります。二つが必要という指摘が聖書にあると考えている人もいるでしょう。しかし、水の洗礼と聖霊の洗礼を同列に見ていいのでしょうか。水の洗礼をしない教派もあり、信仰はしっかりしています。

福音派の指導者の中には、異言を伴う聖霊のバプテスマと区別して、新生のおける聖霊の働きを、聖霊によるバプテスマという人もいます。

ところで、ペンテコステ派では、新生における聖霊の働きをどう考えているのでしょうか。それは聖霊の働きではないのでしょうか。その重要性よりも、異言を伴う経験の方が大きいし、重要なのでしょうか。

聖霊は新生、そして賜物をもたらします。その両者の関係は、どうなのでしょうか。どちらが重要なのでしょうか。

洗礼理解に関する課題が、ここにあります。

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2011年5月25日 (水)

原罪の解釈

昔、出隆著『哲学以前』という本があって、読んだことがある。聖書の創世記にあるアダムとイブの原罪に触れて、著者は、肯定的に捉えていることに、何か違和感を覚えた。

しかし、インマヌエル・カントも、そんな肯定的な見解であった。

「人間が、理性により人類の最初の居所として指示されたところの楽園から出ていったということは、単なるあんよ車を棄てて理性の指導へ、約言すれば自然の後見を脱して自由の状態へ移行したことにほかならない--これが人類の最初の歴史に関する如上の解釈の要旨である」
(「人類の歴史の臆測的起源」インマヌエル・カント著)

しかし、信仰の立場では、原罪はない方がよかった。そんな解釈はないのだろうか。それはある。

「神が制限を与えることによって目的としておられたことは、まったくの恩恵としてであって、人間が人間存在の最も高い可能性へと発展することができる唯一の場所の中に人間を留めておくために、計画されたものであった。ところが悪魔は、神が人間の意志に制限を加えられたのは神の側の願いによるもので、人間の能力が進歩し、発展することをふせぐためのものであると人間に教えた」(「キリストの危機」キャンベル・モルガン著)

原罪によって、その結果として、人間の能力は進歩し、発展する、という理解。これは、あるいは今でも通用しているのではないだろうか。キリスト者においても、こんなサタンの教えを受け入れている場合もあるかも知れない。

原罪がない状態であっても、人間の能力は向上するとモルガンはいう。

我々は、カントと同様に、原罪の意義を肯定する理解を持っていたのではないだろうか。人類の歴史は原罪のあとであろう。原罪がない場合、人類の歴史は、どうなのであろうか。人間の能力は向上したのであろうか。

原罪から人類の歴史が始まったと考えれば、原罪のなかった場合は、どうなっていたか、それは誰にも分からないのではないか。モルガンの解釈も、ただ、神への信頼の上でのことであり、検証はできないであろう。

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2011年5月24日 (火)

大いなる信仰の遺産

思えば、教会というものは新約聖書において既に存在している。既に、いろいろな教会があった。さまざまな意見もあった。その中で、現在も課題である教会一致運動における、一つの教会を求める理念と方法は何なのだろうか。

内村鑑三と共に賀川豊彦の信仰の遺産にも、そのヒントがあるかも知れない。

内村については、再臨信仰の継承を思う。それは聖化をさらに前進させるものでもある。しかし、最近の話題になっているその日を特定して、待つということではない。内村は、そのようなことをしなかったし、否定している。

そして、賀川については何を継承すべきなのか。それは、彼の提唱した神の国運動かと思う。教会は、現在は教派として存在している。しかし、教派主義には弊害があり、また限界もある。その時、「神の国」はそれらを包括し、超えるものとして浮かび上がってくる。

アウグスチヌスの『神の国』は、地の国と神の国との二つの原理による歴史を叙述する。その神の国と教会との関係はどうなのか。神の国は教会を超えるものを持っているのではないだろうか。教会が「道具」と言われるのは、神の国を目的にしているのではないだろうか。諸教会の人々は、その神の国においては、協力できるのではないだろうか。

内村鑑三における再臨信仰、賀川豊彦における神の国運動の二つを思う時、それらは今のキリスト者に与えられている大いなる信仰の遺産であろうと思う。

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2011年5月23日 (月)

ケーベル先生の墓参

6月12日(日)午後2時に東京・池袋の雑司ヶ谷霊園でケーベル先生の墓参をします。ケーベル先生の命日は6月14日です。

毎年のことですが、墓の周囲を掃除して、ひと時、ケーベル先生を思う時がもてたらと思います。

ことしは、ケーベル会の発足を提唱、初代会長をつとめられ、1月に亡くなられた島尻政長氏を偲ぶひと時にもなるかと思います。

関心のある方は、参加を歓迎します。直接、現地に来られてもかまいません。

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2011年5月22日 (日)

悟りと新生

釈迦の転機は悟りであった。そして、その悟りの説明をして、仏教が生まれた。その時、「悟った」「悟った」と言い続けても、人々には何のことか分からなかったであろう。仏教では、悟りは、いろいろと説明され続けている。
一方、キリスト教は、どうだろうか。仏教の悟りに対応するものをキリスト教に求めるとしたら、それは何であろうか。それは救いであり、新生ではないだろうか。しかし、キリスト教では、その救い、新生をどう説明しているのだろうか。体験を語って証しという。しかし、救い、新生の内容を詳しく説明するという伝統があったであろうか。

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生活の反省

生活というものは修行の場なのではないだろうか。生活の外に修行があるのではなく、生活のただ中に修行の場があるのではないだろうか。

そのような工夫が必要ではないだろうか。生活が無意味に感じられる時、それは、生活の中に修行を作るという発想の欠如を意味しているのではないだろうか。

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聖化

聖化の人生の中で、自由意志は無ではない。それは必要であり、求められてもいる。そのプロセスでは、「神人協力説」が妥当かも知れない。半ペラギウス説ではなく、神と共に働くという信仰である。そこでは、ベルジャーエフのいう創造活動が求められているのかも知れない。神とともに働く人生、それが聖化の人生である。

聖化は新生ではない。新生における絶対他力的理解を聖化に適用するのは少し無理があるように思う。

しかし、聖化の極みは、やはり絶対他力的信仰の維持の中にあるのだろう。そこでは、聖化の目標としての再臨を常に見ることが必要になるのだろうと思う。それは見上げることを意味する。そして、それが信仰の姿勢となる。内村鑑三の仰瞻(ぎょうせん)である。

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現代の野外伝道

野外伝道というと、ジョン・ウェスレーを連想するかも知れない。しかし、彼の前に、もう一人、実践していた人がいた。ジョージ・ホウィットフィールドである。彼が野外伝道に踏み切った理由は、国教会の聖職者らに教会での説教を拒否されたからである。洗礼によってキリスト者になるという主張に対して、ホウィットフィールドは洗礼を受けた者も新生の必要があると説教したことが原因と言われている。
この理解の対立は、彼が野外伝道を試みることで、調停はされなかったかも知れないが、この議論は、常にありうるものであろう。
教会の儀式、秘跡のもつ意味は何か。聖霊の直接的働きと秘跡との関係はどうか。どちらの側にいても、ある程度の理解は求められているだろう。

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2011年5月20日 (金)

宣教の動力

「内的な喜びの新しい泉というものは、流れて行くべき水路を求めるものである。彼はやむにやまれずあかしをするようになった」(『信仰に生き抜いた人、ジョージ・ミュラー』A・T・ピアソン著)

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予定論の論理

義認に関しては信仰か行為か、と問われる。そこでは信仰は行為ではない。救いの条件は信仰であって、行為ではない。
しかし、信仰という行為と考える人もいるかもしれない。そんな場合、信仰という行為によって救われるのではない、という言い方が生まれる。その背後に、ただ恵みのみ、そして、神の選びがある。こうして予定論が生まれるのだろうか。

日本では、あるいは法然と親鸞の相違に類似しているのかも知れない。

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四重の福音

信仰の柱を新生と聖化においている教派がある。救世軍は、そうである。救いと潔めという。ナザレン教会もそうである。
一方、A.B.シンプソンの提唱した四重の福音もある。新生、聖化の二つに神癒と再臨が加わっている。神癒は、あるいはなくてもよいかも知れないが、再臨は不可欠ではないだろうか。
なぜなら、新生、聖化、再臨は、信仰の過去、現在、未来に対応しているからである。現在は聖化である。キリスト者とは聖化の道を歩んでいる人たちのことである。
その中で、神癒は信仰の結果という意味があるだろうか。その場合には、祈りで病気が治ったという、一般的な理解よりも、癒しの概念をもっと拡大していかねばならないかも知れない。

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2011年5月16日 (月)

宗教改革の意義

「赦しの中に聖化への力が含まれ、赦したが故に聖化するというのが、福音主義的理解である。然るにさきに見た如く、カトリック主義に於ては逆に、聖化したが故に赦すのである。宗教改革の意義はこの微妙なる相違に対して感覚をもてる者にとってのみ、理解されるであろう」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

この記述によれば、カトリック主義とは半ペラギウス主義、神人協力説のように思える。そのように理解しているカトリック者もいると思う。

しかし、ここで「赦し」といわれているのは、新生に関係していることであり、それは洗礼に関係している。しかし、カトリック主義が、その歩みの中で、過去の事柄としての洗礼を追い求めているのだとは思われない。聖霊降臨日を誕生日としている教会は、その誕生日を未来に期待することはできない。ただ、未来に、将来に目を向けている姿勢は、それ自身としては正しいことであろうが、その目が再臨に向けられているかといえば、それは弱いと思う。もちろん、再臨は語られてはいる。

ただ、中世の国教体制や事効論理解の中で、洗礼の意義があいまいになっていったという現実があるかも知れない。その意味では、宗教改革は「洗礼を問う」という一面もあったのだと思う。

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「善は悪の欠如」

アウグスチヌスにおける新プラトン主義の影響を指摘して、それを批判している神学者がいる。改革派におられる。

なぜ、批判されるのか、それはよく分からない。また、アウグスチヌスにおける新プラトン主義の影響として、何を指しているのかも、よく分からなかった。

しかし、こんな指摘もある。

「アウグスチヌスはマニ教の影響で、「悪は実体である」と永年考えていて、この考えから脱却することが出来ず、苦しみました。プロティノスの「悪は実体ではなく、善の欠如である」という思想によって、この迷妄から脱することができました」
(『聖アウグスチヌス「告白録」講義』高橋亘著)

「善は悪の欠如」とは、アウグスチヌスの言葉としても知られている。ここに、あるいはアウグスチヌスにおける新プラトン主義の影響を見ているのだろうか。新プラトン主義とは、プロティノスによって確立された古代哲学最後の学派である。

では、アウグスチヌス批判は、どこに向けられたのだろうか。悪は善の欠如というよりも、もっと積極的なものなのだ、という思いであろうか。そんな気がしないでもない。

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回心

内村鑑三は回心について、こう言っている。

「一国民は言うまでもなく、一人の人間と雖も、一日にて回心せしめらるべきものと信ずる勿れ」(『代表的日本人』)

回心が聖化、完全な聖化を意味するのであれば、その通りであろう。しかし、新生、救いを意味するのであれば、一日もかからない。一瞬であろう。

例えば、ブッダの悟りは一日もかかったであろうか。一瞬の出来事ではなかったであろうか。

回心とは何か、その定義を考える必要があろう。

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教会と神の国

「教会を神の国と同一視し、教会の歴史的観念を、神の国の終末的観念と同一視することは、聖アウグスチヌスに由来するが、また客体化された意識から産れる幻想の一つである」(ベルジャーエフ『奴隷と自由』)
 「教会を神の国と同一視」という点は、アウグスチヌスが千年王国を教会の歴史とみた点に符合するかも知れない。(もっとも、彼は、最初は、再臨のあとに千年王国があるという見解であったという。)

しかし、彼は、教会と神の国とを区別していたと思う。『神の国』の中で、神の国と地の国を区別し、その中では、神の国と教会との関係を同一のものとは見なかったと思う。教会の腐敗の可能性は了解していたと思う。

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2011年5月15日 (日)

ザビエルの願い

1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルは、日本の地を踏んだ。キリスト教の日本宣教の開始の日である。日本には、それ以前にもキリスト教は伝えられていたとも言われているが、公的に日本宣教の意志を持ったものではないだろう。

1549という数字は、「以後、良い国造り」という言葉で、覚えられてもいる。

しかし、ザビエルの日本滞在は長くはなかった。その後、彼は、日本宣教のために中国宣教を志し、大陸に渡ろうとして果たさず、生涯を閉じた。しかし、彼の願いは、ヴァリニャーノらに受け継がれ、マテオ・リッチが中国で大きな働きをすることになった。

リッチの本としては、『天主実義』が知られているが、当時の宣教師らの本が、日本にも密輸され、一部の知識人らに読まれた。その中に、平田篤胤がいた。

平田は、それらを、日本神話の中に取り入れていった。その発想には、ユダヤが先で、日本は後との、日ユ同祖論ではなく、逆のユ日同祖論が見られるかもしれない。

しかし、平田の日本思想の根幹にある要素に、キリスト教の影響があるとのことは、まもなく知られるところとなった。

堀田善衛(よしえ)は、『若き日の詩人たちの肖像』(1968年、新潮社)の中で、感動的に、その発見を描いている。

こうした過程を見れば、ザビエルの念願は、隠れたところで、進展していったといえるかも知れない。隠れキリシタンの歴史ではない、もっと力強い、しかし、裏のキリスト教宣教史である。

やがて、大正年間に、最初のカトリックの大学として上智大学が創立された。いま、中国のキリスト教は、我が国では信じられないような勢いである。

三自愛国運動は、江戸、明治の禁教、開国といった、日本の選択を反省しているかのようにもみえる。キリスト教は愛国と矛盾はしていない、また、三の文字、自の文字も、考えてみれば示唆的でもある。

ザビエルは、日本宣教を中国から進めようとしたが、ザビエルの後継者たちは、中国のキリスト教と、バチカンの動きに関心を持つべきではないだろうか。

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法然と親鸞

日本仏教の宗教改革というと法然を思う。称名念仏の発見・提唱は、ルターの信仰義認の再発見に似ている。再発見というのは、パウロに次いでという意味である。あるいは、その間にアウグスチヌスがいるかも知れない。

法然の次には親鸞が出た。ルターのあとにはカルビンが出た。この系譜にも、何か類似が見えそうである。

ルターの場合、信仰義認は行為義認とは対立していた。行為ではなく信仰という見方であり、信仰が行為になるという発想はなかったのではないだろうか。しかし、その後、「信仰という行為」といった見方も、教会の歴史の中では見受けられる。内村鑑三の文章の中にも、そんな個所があった。

親鸞は絶対他力の言葉でも知られている。そこでは、念仏を唱える行為もまた、必要ないといった見方もなされている。しかし、法然においては、念仏を唱える行為は、必要であったのだろう。それは行為とも見られるが、誰にでもできる行為という意味で、自力救済主義とは厳しく対立していたのであろう。

しかし、親鸞においては、こちら側の行為ではなく、あくまで、阿弥陀仏の本願に焦点をあてている。それは、信仰という「行為」が救いの「条件」といった理解ではなく、神の定め、予定が救いの根拠といったカルビンの予定説の考え方に近いものを感じさせるのである。

法然と親鸞、ルターとカルビン、この対比をしてみたら、あるいは興味深い発見があるかもしれない。あるいは、既に、そんな指摘があるかも知れない。

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2011年5月11日 (水)

生の意味

仏教で四苦という言葉がある。生・老・病・死である。老・病・死が苦であることは容易に分かる。しかし、生はなぜ苦なのだろうか。そして、生は「生まれる」の意味なのか、それとも「生きる」の意味なのだろうか。そんなことを考えていた。

ところで、同じ仏教に四聖諦と言う言葉がある。苦・集・滅・道である。その中での苦諦は「生きることが苦悩である」という意味である。そこでは「生きる」の意味になっている。

であれば、四苦の最初の「生」の意味は「生きる」でいいのではないかと思う。ということは、人間の存在そのものが苦であるという認識である。これはキリスト教で解釈すれば、人間を原罪において認識することになるのかも知れない。

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2011年5月 9日 (月)

植村正久の信仰の検証

植村正久は16歳の時に、ジェームズ・バラ宣教師から洗礼を受けています。バラはオランダ改革派の宣教師として来日し、日本で最初のプロテスタント教会の牧師になり、横浜バンドの形成に貢献しました。信仰はカルビンの流れです。

さて、植村の信仰思想を考える時、二つの視点が大切と思います。

一つは、日本組合基督教会の指導者だった海老名弾正との論争です。これは、1901年9月に、植村が、自身の主宰する『福音新報』に「福音同盟会と大挙伝道」を発表したことがきっかけで生じたもので、ユニテリアン、ドイツ自由主義神学への反対の姿勢です。この限りでは、正統信仰の側に立っているとみなされています。

しかし、もう一つの視点があります。それは、明治学院で教えていた植村が、採用した神学教科書の是非をめぐり、学院を去ることになったことです。この教科書は、W・クラークの『基督教神学概論』ですが、これは米国での最初の自由主義神学の神学書といわれていて、聖書の高等批評や進化論を取り入れています。このため、1901年から明治学院で神学教師になっていた南長老ミッションの宣教師フルトンと対立が生まれました。

その後、植村は、1904年に東京神学社を設立、フルトンは1906年に学院を去り、1907年、南長老ミッションの設立した神戸新学校の校長になりました。

南長老ミッション系の神学は、カルビン系で、最も保守的と思います。神戸神学校の後身、神戸改革派神学校が、その立場です。その面から植村の神学を見ると、いくつかの違いが見えてきます。植村のファンダメンタリズム(根本主義)批判であり、聖書の無誤性拒否に不満があるようです。

植村と、無教会の内村鑑三との関係も考えてみると興味あるかもしれません。内村は植村を、立場は違っていても一面、尊敬していたと思いますが、植村は内村を嫌っていたようです。植村は、晩年、内村の柏木の自宅の近くに居を構えて、何かをしようとしていたらしいのですが、亡くなりました。何をしようとしていたか、知りませんが、興味はあります。

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ジャンセニウス

「ジャンセニウスによると、人間はエデンの園を追放それて以来、罪と煩悩と快楽の奴隷におちた。人間は神の恩寵によらないかぎり、原罪から自由になることはできにい。しかしその場合、神が救いに必要な恩寵を人間に恵み与えるのは、測り知れない秘義にもとずくのであって、個人個人の功徳の多寡、努力の如何にかかわるものではない。しかもかくてひとたび与えられた恩寵はすべて絶対的に有効であり、人間の意志はそれにさからうことができない。真の信仰は、人間の本性の全面的無能と、神の恩寵の絶対的効力とを認めるところに成り立つというのである。ジュンセニウスのこの思想はアウグスティヌスからの当然の帰結であるとはいえ、カルヴィンの予定救済説に紙一重というべきである。」
(「考える葦 パスカルの生涯と思想」松浪信三郎著)

ジャンセニズムとカルビニズムとは、どう違うのだろうか。「紙一重」とは、どういう意味なのだろうか。

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『ヨナ書霊解』

国会図書館で、バックストンの『ヨナ書霊解』を読んだ。昭和28年に発行されている。以前、感銘を受けた本だ。その感銘を、もう一度確認したかった。小冊子ではあるが、あらためて、この本が名著であることを知った。行間に著者の信仰の言葉が溢れていた。

「多分神の召命はヨナに再三再四来たのであろう。そして彼が祈りの中で神に近づけば常に神はこれを彼にお迫りになったであろう。今もしばしば同様である。しかし、ヨナは従わなかった。そこで良心の棘から救われ、神の臨在から逃れ去らんとして遂にタルシシに逃れることに決心した」(7頁)

召命をこばんだ預言書の物語。こんな例は、旧約聖書の中で、他にないのではないだろうか。モーセも躊躇したが、拒否にまではいかなかった。拒否したら、どうなるのだろうか。ヨナの物語が、それに応えている。信仰がドロップしてしまったキリスト者にとっても、大きな慰めが、この書にはある。

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2011年5月 4日 (水)

教会の弱体

関西学院院長であった故久山康氏の働きを思い、感謝の思いを新たにしている。座談会を企画し、何冊かにまとめられていたが、今でも共感する個所は多い。
例えば、「教会の弱体」について、久山氏は、こう語っている。

「結局問題はキリスト教会に本物がおらないということですね。だからたとえクリスチャンになっても、何か知的な或は情緒的な一つの了解に止っている場合が多い。ところが彷徨し求めているインテリゲンチャの生活は、最後の実質的な拠り所を求めているので、単に口先でキリスト教の論理をあやつったところで、霊的な実質がないから本当に自分の動揺している魂を定着させることができない。そのために現在の人物にもその著書にも失望して、かえって内村さんのような人に関心をよせるということもあります。とにかく真のキリスト教の指導者がいないために、ずいぶん中途半端なところで終ってしまうことが多いですね」(『読書の伴侶』、国際日本研究所、256頁)

その通りと思う。そして、内村鑑三の著書は、今でも通用すると思う。既に没後80年を過ぎている人物であるが。

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「死を待つ人々の家」

カトリック修道会「神の愛の宣教者会」の創立者、マザー・テレサが亡くなったのは1997年9月5日であった。

以前、世界教会協議会(WCC)のニュース通信でEPS(Ecumenical Press Service)というものがあった。週刊で出ていた。それがなくなり、次に、One World という月刊誌が発行された。その中に、インドのカルカッタで奉仕活動をしているマザー・テレサの記事があった。それをキリスト新聞で紹介した。やがて有名になるマザー・テレサの奉仕活動の初期のものであり、日本では割合早い紹介であったと思う。

マザー・テレサの働きの中で、よく知られているのは、「死を待つ人々の家」であろう。マザー・テレサの働きに協力したいという人がいて、マザー・テレサと話したところ、奉仕の場は、ここだけではない、自分のいる周囲にもあるという話だったという。

この「死を待つ人々の家」は、よく考えれば、どこにでもあるのだ。人はみな、やがては死ぬ。そのことを思えば、刑務所と娑婆の区別はない、どこでも、人々は死を待っているのだ。その期間が長いか短いかの違いだけれど、本質的な違いではない。

マザー・テレサの働きを継続すること、それは、「死を待つ人々の家」の観念を拡大していくことではないだろうか。自分の家の周囲のみならず、自分の家もまた、そうなのではないだろうか。マザー・テレサがカルカッタで見いだしたもの、それは世界そのものの実相なのではないだろうか。

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2011年5月 2日 (月)

想定

東日本大震災の課題。最近、震災に関して「想定外」という言葉をよく聞く。そんな事態に直面して頭が真っ白になり、対応が遅れ、状況がますます悪化する。だから、できるだけ、「想定外」をなくし、どんなことが起きても対応できるように準備しておこう。これが一つの教訓。

しかし、よく考えれば、人は誰でも未来を想定して生きているのではないだろうか。その想定を見直すこと、個々人の生活の改善は、そこから始まるのかも知れない。

しかし、なお考えれば、震災での反省点である「想定外を想定せよ」は、一体可能なのだろうか。想定された想定外はありえないのではないだろうか。なぜなら、想定されれば、想定外の「外」はなくなるであろうから。

想定の問題に関連して、最大の想定外は、人間の死であろう。誰でも、この想定外がやがて現実になることを知っている。しかし、それを想定して生きることはしない。人は絶望の中で生きていくことはできないという意味である。だから、余り考えないことにしている。それが多くの人たちの現実ではないだろうか。

想定があれば、安全対策もある。しかし、今回の震災のように、死はいつやってくるか分からない。だから、究極の安全対策というものは、人間は決して安全ではないということを常に想定することなのだと思う。それは、死ぬ時の準備を常に怠るなかれ、ということである。しかし、そういうことを言うと、全く想定することができなくなる人もいるかも知れない。それが人間の真実の姿であろう。そして、課題が、そこにあるのだろう。

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2011年5月 1日 (日)

内村鑑三と精華学園

内村鑑三の伝記に、女子独立学校の名前は出てくるが、精華学園の名前は、普通は出てこない。しかし、精華学園の歴史を引き継ぐ東海大学付属望洋高等学校には、内村鑑三の名前が出てくる。

内村の伝記の中では、「明治32年(1899)7月、私立女子独立学校長を託される。明治33年(1900)9月、女子独立学校辞任。」とある。

一方、東海大学付属望洋高等学校のウィキペディア紹介文によれば、「1883年、キリスト教徒の加藤とし子により、女子独立学校として東京都新宿区角筈に開校。1898年に精華学園となり、翌年には内村鑑三が校長に就任。その後、勝田孫弥が校長を引き受け、1910年に精華高等女学校と改称した。」とある。

したがって、内村が女子独立学校長になった時には、すでに「精華学園」という名前が使われていたことになる。なぜ、内村の伝記に、この精華の名が出てこないのだろうか。

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悪妻

悪妻を持った著名人いうと、ソクラテス、トルストイなどが挙げられる。あるいは、ウェスレーや徳川家康などもそうかもしれない。

ウェスレーの妻は、ウェスレーの髪を引っ張って、ひきづり回したというが、伝記にはほとんど出てこない。しかし、結婚したことは事実らしい。余り幸福な結婚生活ではなかったのだろう。ウェスレーには子はなかった。どんな気持ちで、妻と向き合っていたのだろうか。

家康の正室は築山殿という。彼の場合は悲劇的であった。家康が、今川義元の敵であった織田に寝返ったという「裏切り」が、今川義元の妹の娘にあたる築山殿の反発につながり、悲劇を準備したのだろうか。しかし、戦国の世にあっては、家康の決断はしかたなかったのだろう。

創世記では、神は男を助けるために女をつくったと書かれている。しかし、その女、つまり妻が夫を助けるのではなく、重荷になった場合、そこには幸福な家庭はないだろう。なぜこうなったのか、と問う時、なんらかの回答が見つかるかもしれない。しかし、それでも、悪妻を持ったとしても、神を信じる夫は、ウェスレーとともに、こう言うことができるであろう。「最もよいことは、神が共にいることである」と。

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四重の福音

四重の福音は、日本では、ホーリネス系の教会の信仰の核心を表すものとして知られていると思う。しかし、この提唱者A.B.シンプソンは、カルビン系の信仰を持っていたのだと思う。

ホーリネスと長老派、両者の間には、ドルト会議の信仰理解やメソジストの中でのウェスレーとホィットフィールドとの信仰理解の違いなど、溝があるのかも知れない。しかし、四重の福音に関しては、シンプソンとホーリネスの中田重治には一致があったのだろうか。

ウィキペディアによれば、シンプソンのカルビン主義的信仰の背景には、こんなものがある。
①スコットランド長老教会の厳格なカルバン主義とピュータンの伝統の中で若い日を過ごした。
②1865年、トロント大学のノックスカレッジを卒業後、カナダ長老教会で牧師按手を受け、21歳の時、オンタリオ州ハミルトンにあったノックス長老教会の牧師になった。
③1873年、カナダから合衆国に渡り、ルイビルのチェストナット街長老教会で働いた。
④1880年、ニューヨークの十三番街長老教会の牧師になった。そのあと、病気になり、神癒を体験、回復後、四重の福音を提唱していった。

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