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2011年5月30日 (月)

聖霊のバプテスマ

「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペテロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」
(使徒言行録8・14-17)

カトリック教会の「聖書と典礼」(2011.5.29)には、この個所(17節、手を置くと~)の説明があります。「堅信の秘跡を思わせる表現。ここで与えられる聖霊とは目に見える聖霊の賜物のようである」とあります。

「目に見える聖霊の賜物」とは、あるいは異言のことを指しているのでしょうか。

「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」とも言われています。この洗礼は水の洗礼を指すと思われます。水の洗礼は、そのまま聖霊を受けることではないと、ここでは言われているようです。しかし、聖霊を受けるということは、まず新生において見られるものではないのでしょうか。

ペンテコステ派は、聖霊のバプテスマを受けたことは異言を語ることで証明されると見ています。しかし、福音派は、別の意味で聖霊のバプテスマを考えてきました。それは、新生におけるものでした。それを水の洗礼とは違うと見て、それを重視し、指摘したジョージ・ホィットフィールドは、聖職者たちの不満を引き起こし、教会での説教ができなくなりました。水の洗礼を受けたら誰もがクリスチャン、という理解に対して、いや、水の洗礼のほかにも聖霊を受けることが必要で、そこでクリスチャンと言えるのだという理解の対立が、そこにありました。こののち、彼は野外説教を始めたのです。のち、それはジョン・ウェスレーに引き継がれました。

洗礼には水の洗礼と聖霊の洗礼があります。二つが必要という指摘が聖書にあると考えている人もいるでしょう。しかし、水の洗礼と聖霊の洗礼を同列に見ていいのでしょうか。水の洗礼をしない教派もあり、信仰はしっかりしています。

福音派の指導者の中には、異言を伴う聖霊のバプテスマと区別して、新生のおける聖霊の働きを、聖霊によるバプテスマという人もいます。

ところで、ペンテコステ派では、新生における聖霊の働きをどう考えているのでしょうか。それは聖霊の働きではないのでしょうか。その重要性よりも、異言を伴う経験の方が大きいし、重要なのでしょうか。

聖霊は新生、そして賜物をもたらします。その両者の関係は、どうなのでしょうか。どちらが重要なのでしょうか。

洗礼理解に関する課題が、ここにあります。

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コメント

かつて洗礼の有効性をめぐって議論があった。洗礼を授ける人によって有効なのか、それとも洗礼の仕方を重視すべきかというのが論点であった。それらに対して、人効論と事効論という言葉がある。事効論で決着がついた。人効論だと、洗礼を授ける人に、洗礼の効力が左右されるというので、洗礼者が棄教した場合など、洗礼が無効になるとしたら、洗礼の事実が揺らぐ可能性があり、事柄が複雑になるのが予想される。
それでは、教会の発想から、人効論的視点はなくなったのだろうか。いや、別の方面に目を向ければ、そこでは人効論的視点が生きている。それは、聖人の執り成しという側面である。

投稿: | 2011年5月31日 (火) 16時53分

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