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2011年5月 9日 (月)

植村正久の信仰の検証

植村正久は16歳の時に、ジェームズ・バラ宣教師から洗礼を受けています。バラはオランダ改革派の宣教師として来日し、日本で最初のプロテスタント教会の牧師になり、横浜バンドの形成に貢献しました。信仰はカルビンの流れです。

さて、植村の信仰思想を考える時、二つの視点が大切と思います。

一つは、日本組合基督教会の指導者だった海老名弾正との論争です。これは、1901年9月に、植村が、自身の主宰する『福音新報』に「福音同盟会と大挙伝道」を発表したことがきっかけで生じたもので、ユニテリアン、ドイツ自由主義神学への反対の姿勢です。この限りでは、正統信仰の側に立っているとみなされています。

しかし、もう一つの視点があります。それは、明治学院で教えていた植村が、採用した神学教科書の是非をめぐり、学院を去ることになったことです。この教科書は、W・クラークの『基督教神学概論』ですが、これは米国での最初の自由主義神学の神学書といわれていて、聖書の高等批評や進化論を取り入れています。このため、1901年から明治学院で神学教師になっていた南長老ミッションの宣教師フルトンと対立が生まれました。

その後、植村は、1904年に東京神学社を設立、フルトンは1906年に学院を去り、1907年、南長老ミッションの設立した神戸新学校の校長になりました。

南長老ミッション系の神学は、カルビン系で、最も保守的と思います。神戸神学校の後身、神戸改革派神学校が、その立場です。その面から植村の神学を見ると、いくつかの違いが見えてきます。植村のファンダメンタリズム(根本主義)批判であり、聖書の無誤性拒否に不満があるようです。

植村と、無教会の内村鑑三との関係も考えてみると興味あるかもしれません。内村は植村を、立場は違っていても一面、尊敬していたと思いますが、植村は内村を嫌っていたようです。植村は、晩年、内村の柏木の自宅の近くに居を構えて、何かをしようとしていたらしいのですが、亡くなりました。何をしようとしていたか、知りませんが、興味はあります。

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